2005年度クリスマス礼拝説教 馬場康夫牧師
(説教945 2005年12月25日)
イザヤ書9:1〜6
ガラテヤの信徒への手紙4:1〜7「クリスマス〜二人の神の子の誕生〜」
1.
私が伝道者としてたてられて20回目のクリスマスを迎え、小田原十字町教会の皆さんとクリスマスを祝うようになって、今年が11回目です。今年のクリスマス礼拝において一緒に聴こうとしております聖書の言葉は、新約聖書ガラテヤの信徒への手紙4:1〜7に記されている言葉です。このガラテヤの信徒への手紙は、初代の教会のたいへん優れた伝道者パウロが、ガラテヤ地方にある教会に書き送った手紙です。私どもの教会では、今年の7月最初の日曜日の礼拝から、このガラテヤの信徒への手紙にずぅーと耳を傾けてまいりました。今朝、改めて、4:1〜7に記されております言葉に耳を傾けます。
このガラテヤの信徒への手紙は、私ども日本に生きるキリスト者にとって、とても関係の深い手紙です。日本はアジアの最も東にありますが、ガラテヤ地方は、今のトルコ、アジアの最も西にあります。アジアにある教会に宛てて書かれた手紙です。
このガラテヤの信徒への手紙には、美しいクリスマスの物語が記されているわけではないかも知れません。天使も、羊飼いたちも、東の国から来た学者たちも、主イエス・キリストの母マリアの夫ヨセフの姿もありません。しかし、パウロは、クリスマスの出来事を、まことに鮮やかに伝えております。4:4「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」、という書き方で、パウロは、クリスマスの出来事を、伝えています。神は、そのみ子を女から、生まれた者としてお遣わしになりました。神は、み子、即ち、救い主主イエス・キリストを、女、即ち、マリアからお生まれになられた者として、遣わしてくださった。明らかにクリスマスの出来事です。
ガラテヤの信徒への手紙4:4に記されている言葉は、パウロが書いたほとんど唯一のクリスマスの物語です。天使も、羊飼いたちも、東の国から来た学者たちも、主イエス・キリストの母マリアの夫ヨセフの姿もありません。それだけに、必要なことだけしか書いていない、余計なことは何も書いていない、と言えます。ですから、ここで、パウロは、主イエス・キリストが、母マリア、女性からお生まれになられた、ということが、まず何よりも大切なことである、と思って、書いたのです。
主イエス・キリストが、母マリア、女性からお生まれになられた、ということが、私どもにとって、どれほど、ありがたいものであるか、と思います。私どもの誰もが、母から生まれた、女性から生まれました。母から生まれた、女性から生まれた、ということは、ごく当たり前の、何でもないことかも知れませんが、しかし、主イエス・キリストも、私どもと同じように、母から、女性からお生まれになってくださったのです。この事実が、私どもにとって、どれほど、ありがたいものであるか。
主イエス・キリストの地上でのご生涯には、さまざまな出来事がありました。たくさんの奇跡を行ってくださり、素晴らしい言葉を語ってくださいました。私どもは、主イエス・キリストを模範として生きたい、と願っておりますが、なかなかそう簡単ではありません。むしろ、不可能です。しかし、主イエス・キリストのご生涯と私どもの人生とが、ぴったりと重なるところがある。それは、私どもが、母から、女性から生まれたように、主イエスも、母から、女性からお生まれになってくださった、という点においてです。主イエスの地上での人生と、私どもの人生とがぴったりと重なるのです。
言い換えると、ほんとうに、私どもと同じ体をとって、この地上に来てくださった、ということです。私どもと全く変わらない人間の姿をとって、私どもの仲間になってくださったのです。この事実が、私どもにとって、どれほど、慰めに満ち、励ましになるか、と思います。
主イエス・キリストも、私どもと同じように、母から、女性からお生まれになってくださった、ということは、私どもが、体をもっているがゆえに、経験するすべてのことを、主イエス・キリストも、同じように経験してくださった、ということです。だから、私どもの喜び、楽しみを、よくご存じであられ、私どもの悲しみ、苦しみ、悩み、嘆き、痛み、さびしさなども、ご存じであられる。主イエス・キリストは、神の子であられるからといって、遠い、高い天におられて、私どもを、見下ろしておられたのではなく、私どもと同じ体をとって、この地上に来てくださったのです。私どもの傍らに、すぐ側に来てくださったのです。主イエス・キリストは、私どもの近くにいてくださり、私どもを、見つめていてくださり、私どもの祈りを、聴いていてくださるのです。
パウロは、4:6「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」、クリスマスの出来事、主イエス・キリストが、母マリア、女性からお生まれになってくださったことと、私どもが、アッバ、父よ、と神を呼んで、祈りを献げることができるようになったことを、切り離していません。主イエス・キリストが、女性から生まれてくださり、私どもと同じ体をもってくださったから、私どもの祈りを、ご自分のこととして、ご自分の祈りとして、父なる神に運んでくださるのです。私どもは、祈りを献げるたびごとに、主イエス・キリストの父なる神、と呼びかけ、主イエス・キリストのみ名によって祈ります、と祈ります。私どもが献げた祈りは、主イエス・キリストが、献げてくださった祈りとして、父なる神に運ばれていくのです。大胆に言い方をすれば、私どもの祈りは、み子主イエス・キリストご自身の祈りになる、神の子自身の祈りになるのです。
2.
しかも、パウロは、主イエス・キリストが、ただ、母マリアから、女性から、お生まれになられ、私どもの仲間になってくださった、ということだけを書いたのではなく、律法の下にお生まれになられた、と書いています。いったい、主イエス・キリストが、律法の下にお生まれになられた、ということは、どういうことなのでしょうか。
改めて申しますが、パウロが、ここに記しておりますクリスマスの出来事には、天使も、羊飼いたちも、東の国から来た学者たちも、主イエス・キリストの母マリアの夫ヨセフの姿もありません。それだけに、必要なことだけしか書いていない、余計なことは何も書いていない、と言えます。ですから、パウロは、主イエス・キリストが、律法の下にお生まれになられた、ということが、最も大切なことの一つである、と思って、書いたのです。
主イエス・キリストが、律法の下、即ち、神の戒め、掟の下にお生まれになられた、ということは、いったい、どういうことなのでしょうか。
パウロは、かつての私どもの姿、主イエス・キリストと出合う前の私どもの姿を、こう書きました。4:1〜2「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。」、相続人、というのは、私どものことです。かつて、私どもは、後見人や管理人の監督の下にいた、とパウロは、語るのです。後見人や管理人、というのは、既に、パウロが、3:24「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」と語ったように、未成年を養い育てる養育係です。即ち、律法です、旧約聖書に記されているさまざまな律法、戒め、掟です。私どもが、未成年の間、神の子どもとして、健やかに成長するために、神の言葉である律法の下にあった。神の言葉である律法によって、養い育まれてきた。しかし、私どもだけではなく、主イエス・キリストも、また、ご自分を律法の下に置いてくださった。それは、いったい、なぜか。
4:5「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」、律法の支配下にある私どもを贖い出してくださるため、とパウロは、語っています。私どもは、かつて、未成年の間、後見人や管理人の監督の下にいた、養育係の下にいた、律法の支配下にあった。
かつて、私どもが、律法の下にいて、いったい、どういう状況であったのか。3:10「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」、パウロは、旧約聖書申命記に記されている言葉を引用して、律法、神の戒め、神の掟を、すべて守らなければ、呪われている、神の審きを受けざるを得ない、と語りました。だから、律法、神の戒め、神の掟の実行によって、神の義を獲得しようと思う者は、一人残らず、呪われている、神の審きを受けざるを得ない、と語ったのです。律法、神の戒め、神の掟を、完全に守りきることができる者は、一人もいないからです。
しかし、律法、神の戒め、神の掟そのものは、神の言葉であって、間違ってはいない、正しいのです。その神の言葉に、私ども自身を照らし出す時に、私どもは、神の言葉に従い得ていない、ということに気がつかされるのです。だから、ほんとうは、神に呪われても、神に審きを受けても、神の祝福を受けることができなくても、神に言葉を返すことはできないのです。私どもは、本来、神の審きを受けざるを得なかったのです。
ところが、3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」、主イエス・キリストが、呪われてくださった、主イエス・キリストが、私どものために、呪われてくださった。驚くべき言葉です。主イエス・キリストが、十字架の木に磔られて、呪われてくださった。いったい、誰に呪われたのか。律法の呪い。律法、神の戒め、神の掟の呪いを、引き受けてくださった。律法は、神の言葉です。主イエス・キリストは、神の言葉の呪いを引き受けてくださった。神の呪いを引き受けてくださった、神に呪われてくださったのです。主イエス・キリストに、呪いを背負わせたのは、私ども自身の罪です。私どもに臨むべき筈であった神の審き、神の呪いを、主イエス・キリストが、十字架によって、引き受けてくださったのです。私どもは、自分自身の律法の呪い、罪を償うことができない。私どもに代わって、主イエス・キリストが償ってくださった。それを、贖う、と言うのです。主イエス・キリストは、私どもに臨むべき筈であった律法の呪い、神の呪い、神の審きを、引き受けてくださるために、ご自分を律法の下に置いてくださったのです。
だから、3:25「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」、最早、私どもは、養育係の下にはいない、後見人や管理人の監督の下にいない、律法、神の戒め、掟の下にはいない。それなら、私どもは、どこにいるのか。主イエス・キリストの下にいる。だから、私どもは、もう、神の審きを受けない、神の呪いを受けない。私どもが神から戴くのは、審きではなく、呪いでもなく、神の祝福です。
3.
4:4〜5「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」、私どもは、神の子主イエス・キリストのおかげで、私どもも、神の子になったのです。本来、唯一の神の子は、主イエス・キリストだけです。しかし、私どもは、神の子主イエス・キリストのおかげで、私どもも、神の子になったのです。神の子であられる主イエス・キリストの妹弟として生き始めることができたのです。
最近、日本語に翻訳され、出版された書物に、『はじめてのカテキズム、わたしたちは神さまのもの』、という書物があります。1998年に、アメリカ合衆国長老教会が、子どもたちのために信仰の継承を願って纏めた書物です。この書物は、その最初の問いで、こう問うのです。問1「あなたは誰ですか」。皆さんでしたら、どう答えるでしょうか。この書物は、こう答えるのです。答「わたしは神さまの子どもです」、あなたは誰ですか。私は神さまの子どもです。子どもたちに、私は神さまの子どもです、ということを伝えるのは、相手が子どもであるからではありません。私ども自身が、自分は神さまの子どもである、ということを信じているからです。この書物が、私は神さまの子どもです、という答えを与える聖書の言葉の一つとして真っ先に挙げておりますのが、今朝、一緒に聴いておりますの言葉なのです。4:6〜7「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」。
いったい、どこで、私どもが、神の子である、ということがわかるのか。パウロは、律法の行い、善い行いからわかる、と語っているのではありません。4:6「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」、神を父よ、と呼ぶことができる主イエス・キリストの霊、聖霊を送ってくださった事実からわかる、というのです。あなた方は、事実、神の子、それは、神を父よ、と呼んでいる事実からわかる。なぜ、神を父よ、と呼ぶことができるのか。それは、主イエス・キリストの霊、聖霊を受けたから。主イエス・キリストが、神を父よ、とお呼びになられて、祈りを献げられたように、私どもも、主イエス・キリストの父なる神さま、と祈ることができる、その事実から、私どもが神の子である、ということがわかるのです。主イエス・キリストの父なる神さま、と祈ることができる、ということは、私どもは、既に、神の子である、ということなのです。信仰が与えられている、ということなのです。
アッバ、という言葉は、日本語でいえば、パパ、おとうちゃんです。ユダヤの小さな子どもが、最初に語り始める言葉です。生まれてから何か月か経った幼児が、言葉にならないような言葉で、両親を呼び始め、食べ物を求める言葉です。まんま、ママ、パパ。そのようにして、父なる神を呼ぶことができるここに祈りが生まれるのです。主イエス・キリストの霊は、聖霊は、神を父よ、と呼ぶ心を、私どもに与えてくださるのです。聖霊を受ける、ということは、何か神秘的な体験をする、ということではありません、聖霊を受けたことを感じる、感じない、ということでもありません。勿論、そのような体験を重んじる教会や教派があり、そのような体験を与えられる人々もいるでしょう。しかし、何よりも、私どもが、父なる神さま、と祈ることができる、ということは、私どもは、既に、神の子である、ということなのです。信仰が与えられている、ということなのです。
パウロは、既に、語りました。3:26「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」、私どもは、主イエス・キリストのおかげで、神の子どもなのです。私どもは、神を父よ、と呼ぶことができる何ものにも代え難い財産を、戴いたのです。
神を父よ、と呼ぶことができるようになったのは、私どもが、神を父よ、と呼ぶことができる主イエス・キリストの霊、聖霊を受けるのにふさわしくなったから、というのではありません。私どもが、聖霊を受けるに足りる資格ができたからではありません。私どもが、神のことを十二分に知り、よく弁えることができるようになったからでもありません。パウロは、4:9「…今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに…」、と語っています。パウロが書いた手紙は、パウロ自身が筆をもって書いたのではありません。口述筆記でしした。パウロが、一所懸命、語りながら、パウロの弟子が、書いたのです。パウロは、私たちは神を知っている、と言いながら、はっと、気がついたのです。いや、そうではない。神に知られているのだ。神が、私どものことを知っていてくださる。神が皆さん一人一人のことを、ご存じでいてくださる。この恵みに押し出されて、私どもは、神を父よ、と呼び、祈り、生きることができるのです。
4.
最後に、今朝の説教の題に、二人の神の子の誕生、という題を付けました。一人は、言うまでもなく、神の子主イエス・キリストのお誕生です。もう一人は、私どもです。皆さんです。クリスマス、というのは、神の子主イエス・キリストのお誕生であるのと同時に、私どもが、神の子として生まれた喜びの時でもあるのです。 (完)
説教の本棚トップページに戻る