会報485

2007年4月8日イースター礼拝説教要旨

詩編第139編1〜12節 
フィリピの信徒への手紙
第4章4〜7節

     「神の瞳の中で生かされて」   牧師 馬場康夫

1.おはよう 
今朝、皆さんはどんな言葉を語って、一日を始めたでしょうか。「おはよう」。家族に「おはよう」と語り、愛する人々、既に天に召された家族の写真に向かって「おはよう」と言葉をかけて一日を始めた方たちが多いのではないかと思います。あるいは、「神さまおはようございます」と一日を始めた方たちもきっといると思います。私どもは教会に集い、お互いに「おはようございます」と挨拶を交わし、礼拝堂の中に入ってまいりました。

 今朝、私どもは今年のイースター、復活祝日の礼拝を献げています。救い主・主イエス・キリストがお甦りになってくださった記念の日です。
 主イエス・キリストがご復活なさって、最初に語ってくださった言葉はいったいどういう言葉であったでしょうか。マタイによる福音書第28章9節「おはよう」。 私どもは主イエス・キリストのようには語ることができないと思い込んでいるところがあるかも知れませんが、同じ言葉を口にすることができるのです。その言葉が「おはよう」なのです。素敵なことです。私どもが毎朝「おはよう」と挨拶をするたびごとに、主イエス・キリストもご復活なさった朝、いつもの朝と同じように「おはよう」と挨拶をしてくださったということを思い起こすことができるのです。そのたびごとに、私どもの心も体も喜びに満たされます。だから、「おはよう」と翻訳されている言葉は「あなた方に喜びがある」、「喜ぶ、喜び祝う」、「平安あれ」とも翻訳することができるのです。
 ご復活なさった主イエス・キリストは、最初に「おはよう、あなたがたに喜びがある、平安がある」と宣言してくださいました。それは、主イエス・キリストの弟子たちも、主イエス・キリストに従ってきた女性たちも挨拶する元気を失っていた、途方に暮れていたからです。主イエス・キリストを十字架によって失った。いや、主イエス・キリストの十字架の死から三日目、主イエス・キリストをお納めしたお墓から主イエス・キリストの体がなくなってしまった。茫然自失、平安を失っていました、狼狽え、脅え、恐怖に支配され、思い煩っていたからです。
 この弟子たちの姿、女性たちの姿は私ども自身の姿です。私どもも主イエス・キリストのお姿を見失う時、狼狽えます、脅えます、神のお姿が見えなくなってしまうから恐怖を抱くのです。

2.恐れるな、平安がある
 そのような私どもに、弟子たちに、女性たちに、主イエス・キリストはご復活なさった直後、真っ先に「おはよう」と挨拶してくださったのです。この挨拶の言葉に引き続いて、マタイによる福音書は、第28章10節「恐れることはない。」と語ってくださった主イエス・キリストのお言葉を記しました。ルカによる福音書は第24章36節「あなたがたに平和があるように。」と記し、ヨハネによる福音書は第20章19節、26節「あなたがたに平和があるように。」と記しています。
 しかも、興味を引くことはマタイによる福音書が第1章20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と語った天使の言葉を記録していることです。マタイによる福音書は第28章五節「恐れることはない。」と語った天使の言葉を記録しています。ここでも天使は「恐れるな」と語ったのです。クリスマスの時「恐れるな」と語った天使が、イースターの時「恐れるな」と語った。マタイによる福音書は「恐れるな」と語った天使の言葉を記録するところから主イエス・キリストのご生涯を描き始め、「恐れるな」と語った天使の言葉を記録することによって主イエス・キリストのご生涯を描き終えているのです。ルカによる福音書はその冒頭において繰り返し「恐れるな」と語り続けた天使たちの言葉を記録し、第2章14節「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」と讃美した天使たちと天の大軍の言葉を記録するところから主イエス・キリストを描き始め、「あなたがたに平和があるように」と語った天使の言葉を記録することによって主イエス・キリストのご生涯を描き終えているのです。いったい救い主・主イエス・キリストによって何が与えられるのか。もう恐れなくてよい、恐れからの解放です、平安です。
 フィリピの信徒への手紙第4章7節「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」さらに、第4章9節「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」、フィリピの信徒への手紙の著者パウロ、初代の教会のたいへん優れた伝道者パウロが語っております言葉も「平和、平安」です。平安の神、平安を与えてくださる神があなた方とともにいてくださる、あらゆる人知を超える神の平安があなた方の心と考えとを主イエス・キリストによって守る。
 言い換えると、私どもは守られている。誰が私どもを守ってくださるのか。神ご自身です、主イエス・キリストご自身です。だから、私どもは自分で自分を守る必要はない。肩肘張って身構えて自分で自分を守る必要はなくなったのです。神がともにいてくださることによって、平安が与えられ、守られているからです。主イエス・キリストによってあらゆる人知を超える神の平安が私どもの心と考えとを守るからです。
 あらゆる人知を超える神の平安はいったいどのような平安なのでしょうか。人知、と翻訳されている言葉は、理性、という言葉です。神の平安は、人知を超え、理性を超える、人間の工夫や理屈によってもたらされるのではない。神の平安は人間の知恵、知識、努力、力によってもたらされるものではないのです。
 主イエス・キリストはこう語ってくださいました。ヨハネによる福音書第14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」主イエス・キリストが与えてくださる平安は、この世が与えるような仕方で与えられるのではない、人間の工夫や理屈によってもたらされるのではない平安なのです。

3.すぐ近くにいてくださる主イエス
 それなら、神の平安、主イエス・キリストが与えてくださる平安はどのようにして与えられるのでしょうか。

 パウロはこう語りました。コリントの信徒への手紙T第1章21節「…神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」、宣教、即ち、説教です。
 主イエス・キリストはこう語ってくださいました。ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」、聖霊が与えられた時、主イエス・キリストが語ってくださった言葉、即ち、説教を全て思い起こすことができるようになる。
 主イエス・キリストが与えてくださる平安は主イエス・キリストが語ってくださった言葉によって与えられる、説教によって与えられるのです。いや、説教だけではありません。主イエス・キリストが定めてくださった聖餐もまさに人知を超えます。聖餐は人間が発明したものではありません。聖餐は主イエス・キリストが定めてくださったのです。神の平安は、説教と聖餐を通じて与えられるのです。だから、私どもは、説教が語られ聴かれ、聖餐が執り行われる礼拝を重んじるのです。ここでこそ神の平安が与えられるからです。
 それなら、説教と聖餐の務めは、いったい、何か。フィリピの信徒への手紙第四章五節「主はすぐ近くにおられます。」主イエス・キリストがすぐ近くにいてくださるということを伝える務めが、説教のはたらきであり、聖餐のはたらきです。私どもは、説教を聴くたびごとに、主イエス・キリストが近くにいてくださるということを信じ、聖餐に与るたびごとに、主イエス・キリストが近くにいてくださるということを、確信することができるのです。

4.見守ってくださる主イエス

 だから、第四章六〜七節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」、思い煩う時、何でも祈りなさい、求めているものを神に打ち明けなさい。私どもは大胆に祈ることがゆるされている。その時、人知を超える神の平安が主イエス・キリストによって私どもに与えられる、とパウロは断言するのです。
 思い煩うということは、何でも自分の力、努力、自分の知恵、知識、経験によって解決しようとすることです、何でも自分で背負い込むことです。大切なことは、全て自分で担うのではなくて、主イエス・キリストに担っていただく場所をあけておくことです、神がはたらいてくださる場所をあけておくことです。自分の思い煩い、悩み、嘆き、痛み、悲しみ、さびしさ、あらゆる心配ごとを祈りによって神に投げかけ、自分だけの思い煩い、心配にしないで、神の思い煩い、心配にすることがとても大切です。自分だけの心配にしないで、神が私どもに心を配ってくださることができるように、神の心配にすることです。祈りによって訴えるのです。
 だから、思い煩いの中にいる人にこそ、主イエス・キリストは近くにいてくださる、思い煩いの中にいて、祈り続ける人にこそ、主イエス・キリストは近くにいてくださり、人知を超えた神の平安を、運んでくださるのです。主イエス・キリストによって、私どもを、神が見守っていてくださる。私どもの揺れ動く心、どう考えたらよいかわからなくなってしまう思いを、主イエス・キリストによって、神が見守っていてくださる。主イエス・キリストが、全力をもって、見守っていてくださるのです(2007年4月8日イースター礼拝説教要旨)。

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