説教1016 教会創立110周年記念伝道礼拝
2007年5月6日 馬場康夫牧師
詩編90:1〜17
ペトロの手紙二3:8〜13「神の恵みを数え、賢く生きる」
1.
5日前、5月1日に、私ども小田原十字町教会は、教会創立110周年記念日を迎えました。1897年、明治30年、5月1日、初代牧師武田頼夫牧師が小田原に到着し、翌5月2日、最初の主日礼拝が、武田頼夫牧師とその家族、僅か3名によって、献げられました。伝道当初は、伝道の困難を極め、初代の牧師は、クリスマスを前にして僅か6か月で、小田原を離れ、3代目の牧師は2か月で辞任。牧師が変わるたびごとに、礼拝を献げる場所が変わり、今、私どもが、礼拝を献げております場所は、11番目の場所です。関東大震災を挟む2年半は、牧師がおらず、一人の女性教会員が、自宅、おそらく貸家であったと思われますが、そこに、小田原基督同胞教会の看板を掲げて、日曜学校の礼拝を献げ続けたのです。その時に、教会に通っていた小さな少女が、今も、私どもの教会において、信仰生活を続けています。城下町小田原において、自宅、まして、貸家に教会の看板を掲げることが、いったい、何を意味するのか、想像に難くありません。
この110周年の間に遣わされた牧師たちは、私を含めて、14名。最も長く牧師として仕えたのは、私の前任藤原亮牧師で、43年間でした。いや、それよりも、いったい、この110年の間に、何人の方たちが、洗礼を受け、信仰を告白し、教会を支えてきたことか、と思います。与えられた賜物を献げて、教会に仕えてきたのです。そして、また、この110年の間に、いったい、何人の方たちが、この地上での生を終え、天に召されたことか、葬儀が執り行われたことか、と思います。
私が、小田原十字町教会に遣わされて12年が終わり、13年目に入りました。この12年余りの間に、私どもが礼拝を献げているこの礼拝堂において、いったい何人の方たちの葬儀が執り行わたれことでしょうか。繰り返し繰り返し葬儀が執り行われ、悲しみの涙が流されてまいりました。葬儀を執り行い、天に召された方たちを覚えて、遺された人々に慰めを祈るために、記念会を執り行ってきました。愛する人々が、この地上での生を終えて、今年で何年目、と私どもは数えてきました。私は、記念日を迎えるたびごとに、遺された家族に、「今年で何年目ですね。永遠のいのちを与えてくださる救い主主イエス・キリストから慰めがあるように」、との便りを差し上げてきました。このように、私どもは、記念日を覚えて何年目と数えます。私どもの人生には、忘れることができない日があります。
私どもは、数えながら生きています。おおよそ全ての人間は、時を数えて生きています。今年は何回目の誕生日を迎える、今年は洗礼を受けてから何年目だ、信仰告白してから何年目だ、と信仰の年輪を数えます。神が与えてくださる恵みの年輪を数えることは、とても大切なことです。今年5月1日、小田原十字町教会は、教会創立110周年を迎えます。教会も時を数えています。
今日は何年何月何日であるか、あるいは、何曜日であるかと数えています。たとえば、今日は日曜日だから私どもは礼拝に集まって来ました。午前10時から礼拝が始まる。だから、遅れないように余裕をもって集まってきました。時を数えているのです。私は牧師ですから説教を語ります。もし、日曜日の朝が近づいてきているのに、あと何時間しかない、あと何分しかない、まだ説教ができていないということになればたいへんなことになります。日曜日の午前10時、いや、土曜日を起点として、時を数え備えておれば安心です。このように、私どもの誰もが、時を数えて生きています。
時の数え方にはいろいろあるかと思います。時の数え方によって、一人一人の人生観、自分の人生をどのように理解し、生きているかということが明らかになります。何を重んじて生きているか、ということが明らかになります。何を基準に時を数えるのかによって、その人が大切にしているもの、何を重んじて生きているか、ということが明らかになります。今年は2007年、西暦2007年、主イエス・キリストご降誕2007年です。主イエス・キリストのご降誕が、私どもにとって掛け替えのない救いの原点であることを明らかにして、主イエス・キリストのご降誕を時の基準として、私どもは時を数えているのです。
逆に、今年のクリスマスまであと何日という数え方もあります。いったい、私どもはこの地上での人生において、あと何回クリスマスを祝い、イースターを喜び感謝し、ペンテコステを迎えるのだろうか。私は、今朝、礼拝に集まって来た皆さんに比べて若い方だと思いますが、それでも、この地上での人生において、あと何回クリスマスを祝い、イースターを喜び感謝し、ペンテコステを迎えるのだろうか、と考えます。遠く離れた神戸におります年齢を重ねてまいりました父母は、この地上での人生において、あと何回クリスマスを祝い、イースターを喜び感謝し、ペンテコステを迎えるのだろうか、と思いますし、あと何回、父母に会えるだろうか、とも思います。そして、私自身、いつこの地上における生の終わりを迎えるのだろうか、と思います。私が、葬儀を執り行うたびごとに祈る祈りがあります。皆さんも、覚えていると思います。自らの生に終わりがあることを悟らせてください、その日に備えさせてください、との祈りです。
2.
今朝、一緒に聞いております旧約聖書詩編90:1〜17、ここには、繰り返し数字が記されます、時を数える言葉が記されます。90:1「代々…世々とこしえ」、90:2「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から」、90:4「千年…昨日…今日…夜の一時」、90:5「朝」、90:6「朝…夕」、90:9「生涯」、90:10「人生の年月は七十年程…八十年を数えても…瞬く間に時は過ぎ」、90:14「朝…生涯」、90:15「日々…年月」。
そして、この祈りを祈ったとされるモーセ、旧約聖書に登場するたいへん優れた指導者モーセは、90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」、と願っています。生涯の日を正しく数える、いったい、あと何年生きることができるのか、いつ人生の終わりの日を迎えるのか、それを見極めることが知恵ある心である、賢く生きる生きることである、とモーセは考えていたのです。それで、この詩編第90編は、知恵の詩、とも呼ばれてきました。しかも、旧約聖書において、知恵文学の代表とされる箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め。」、と語っているように、知恵の初めは、神を畏怖畏敬する、神を畏れることであり、知恵ある心、賢く生きることとは、自分の人生の終わりを視つめることであるのです。神を畏怖畏敬することと自分の人生の終わりを視つめることは、別々のことではないのです。なぜそう言えるのでしょうか。
しかも、知恵ある心、賢く生きるとは、ただ、いったい、あと何年生きることができるのか、いつ人生の終わりの日を迎えるのか、ただ数を数える、というのではない。生涯の日を数えるにしても、正しい数の数え方がある、とモーセは、語るのです。それなら、生涯の日を数える正しい数え方とは、いったい、どういう数え方なのでしょうか。私どもが、自分自身の生涯の日を正しく数えた時、どうなるのでしょうか。
モーセが数え上げている人生の年月は、90:10「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」、70年、80年です。しかし、たとえ健康であったとしても、人生において得るものは労苦と災いに過ぎず、瞬く間に人生は終わる、とモーセは語ります。人間の人生が、70年、80年、短いから儚い、といっているのではありません。たとえ、100歳、120歳と年齢を重ねたとしても、儚い、とモーセは語っているのです。90:4〜6「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」、たとえ千年間の繁栄、賑わいであったとしても、人生はまことに儚い、とモーセは語るのです。モーセは、いのちの儚さ、死の厳しさを、語っています。モーセは、人間の儚さ、弱さ、危うさ、脆さを語っています。しかし、モーセが語っていることは、結局、人生は、苦労の連続であって、気がついたら、年をとっていた、儚い、空しいものなのだ、との諦めではありません。
詩編は、既に、こう語りました。8:5〜9「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」、神が人間を、神ご自身よりも、僅かに劣るものとして造ってくださったこと、しかし、特別に愛してくださり、創造の冠として造ってくださったことを思い起こしています。
また、創世記1:26〜27「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」、人間は神にかたどって造られた存在です。かたどって、と翻訳されている言葉は、向き合う、応答する、という意味をもった言葉です。人間は、もともと、神に向き合う、神に応答すべき存在として、神が造ってくださいました。神が呼びかけてくださると、人間が応える、人間が呼びかけると、神が応えてくださる、そのような関係として、もともと、人間は、造られたのでした。神が、聖書の言葉、説教の言葉を通して、私どもに呼びかけてくださる、私どもは、聖書の言葉、説教の言葉を受け入れて、応える。私どもが、祈りによって、神に呼びかけると、聖書の言葉、説教の言葉を通して、あるいは、さまざまな出来事を通して、神が応えてくださる。
ところが、最初の人間アダムとエバは、神の顔を避けた、神と向き合うことを拒絶し、神と応答すること拒否した。だから、すべての人間は神のかたちを失い、アダムの形になってしまったのです。
だから、創世記3:19「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」、と語ったように、詩編90:3「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」、とモーセは語った。人間が、塵、儚く消え失せてしまう存在となってしまったのです。
だから、モーセは、人間の儚さがいったいどこからくるのか、改めてこう語ります。90:7〜9「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。」、神が、人間の罪に対して怒られ、憤られ、審きを執り行われるからです。隠し通すことができる思い込んでいる私どものさまざまな過ちが、神の前で明らかになるからです。どこで明らかになるのか。ここで明らかになる、礼拝において明らかになるのです。聖書の言葉一つ一つに私どもの行い、言葉、心を照らし出す時、私どもの罪が明らかになります。私どもは、既に、この礼拝において十戒を口にいたしました。神が、モーセを通して、信仰に生きる人々に与えてくださった言葉です。この十戒の言葉一つ一つに、私どもの行い、言葉、心を照らし出す時、私どもの過ちが、明るみに出されるのです。出エジプト記20:3「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」、と『新共同訳聖書』が翻訳している十戒の第1の戒めの言葉を、『文語訳聖書』は、「汝、我顔の前に、なにものをも神とすべからず」、と翻訳していました。その神の御顔の光の中に、私どもの隠れた罪が置かれる時、私どもは、神の怒り、憤りにさらされ、審きを受けざるを得ない。
だから、ほんとうは、罪を抱えたまま神の前に出ることは、恐怖である筈なのです。しかし、90:11「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。」、神が人間の罪に対してどれほどお怒りになられるか知り得ない、とモーセが語っているように、その恐怖を抱くことさえなくなってしまうほどに、私どもは自分自身の罪に対して鈍くなってしまう。ともに生きる隣人の過ちに対してはまことに敏感であるのにもかかわらず、自らの過ちに対してはまことに鈍い、と言わざるを得ない。
しかし、教会改革者ルターは、「これが祝福の第一の部分となる。罪の故にいかなる祝福も見ないということである。これこそ最高の知恵である。神の怒りの認識に深く入り込むのである。…」、と語っています。私ども人間が、自分自身の罪のために、神がお怒りになられ、神の祝福を受けることはできない、ということを知ることが、最高の知恵である、とルターは、語っているのです。ルターは、矛盾しているようなことを語っているようですが、私どもは、ほんとうは、自分自身の罪のために、神がお怒りになられ、神の祝福を受けることはできないのだ、ということを、知ることが、最高の知恵なのです。なぜか。神の祝福を受けることができない筈の私どもに、神の祝福が与えられるからです。
しかも、90:11「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。」、ただ、神の律法、戒め、掟を口にすることによって、私どもは自分自身の罪を知るのではなくて、神を畏怖畏敬する畏れを知ることによって、神の怒りと憤りを知るようになる、とモーセは、語るのです。それなら、神を畏怖畏敬する畏れは、いったい、どこから、与えられるのでしょうか。主イエス・キリストの十字架を視つめることによってです。
実際、私どもの教会の伝統をつくりました教会改革者カルヴァンは、90:8「み顔の光のうちにわれらの罪を隠されます。」、と翻訳しており、こう説明しています。「モーセはこれによって、人間が暗闇の中に身を隠し、多くの美しいごまかしに身を包むのに、神はそのさばきの光を少しも照り輝かせられない、と言いたいのである。」、神の光は、人間の罪の姿を暴き出すだけではなく、罪を隠す、赦す。驚くべき言葉です。カルヴァンは、既に、ここで、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを、視つめているのです。私どもは、主イエス・キリストの十字架によって、罪の審きからの赦しを知る時に、自分自身の罪を知り、神への畏怖畏敬が生まれるのです。罪の審きから赦しの恵み重さを知る時に、自分自身の罪の重さを知る。ただ神を恐れるのではなく、畏怖畏敬する畏れによって、神が神であられることを知るのです。恐れから、畏れへ、恐怖から、畏怖畏敬へと導かれるのです。
だからこそ、90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」、とモーセは語ったのです。生涯の日、生涯が終わる時、私どもは神の前に、神の審きの座の前に出るから。その日に備えよう、とモーセは呼びかけるのです。
この説教の直前に、私どもは、使徒信条によって、教会の信仰をともに告白いたしました。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」、主イエス・キリストが、かしこ、天から、再び来てくださり、その時、未だ生きている人々も、もう既に死んでしまった人々も、お審きになられる。ですから、神の審きの座の前に出ることは、ほんとうは、恐怖を、私どもにもたらすのです。
しかし、その恐怖を、主イエス・キリストが、十字架によって、引き受けてくださったのです。主イエス・キリストが、十字架を前にして、ゲツセマネの園で、苦闘の祈りを献げられたのは、この恐怖を引き受けてくださるための祈りであったのです。主イエス・キリストが、罪の審きとしての死の恐怖を引き受けてくださったから、わたしどもはもう恐怖を抱く必要はなくなったのです。
クリスマスの時、救い主主イエス・キリストを出迎えたシメオンは、安らかに去ることができる、死ぬことができると歌いました。教会改革者カルヴァンは、シメオンが歌った讃美歌を、聖餐を祝った直後に歌うことを、礼拝式文において指示しています。ですから、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを受け入れた私どもは、自らの終わりの日をビクビクして待つ必要はもうなくなったのです。
私どもの教会が重んじておりますハイデルベルク信仰問答も、問52「生ける者と死ねるものとを、さばくための再臨は、どのように、あなたを、慰めるのですか。」、主イエス・キリストが、審きを執り行ってくださるために再び来てくださる再臨が、慰めである、と語っています。
3.
ところで、モーセは、90:3「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」、と語りました。神は、私ども人間を、私どもの罪をお審きになられるがゆえに、塵に返る、と語られただけではなく、もう一つ、帰れ、と語っておられるのです。人の子よ、帰れ。どこへ帰るのか。塵に返るのか。違う。神のもとです。塵に帰れ、と語ってくださった神ご自身が、ご自分のもとに帰っていらっしゃい、と語ってくださるのです。神が、私どもが、神のもとへ、帰ってくることを、願っていてくださる、待っていてくださるのです。教会に集う、ということは、神のもとに帰る、ということです。
この言葉に支えられて、モーセは、90:13「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」、と祈ったのです。塵に返らざるを得ないような私どものところに、神が帰ってきてください、と祈っているのです。
一方で、神の怒り、憤りは、激しく、神の審きは、とても厳しい、と語りながら、90:11「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。」、神の怒りと憤りの激しさ、神の審きの厳しさを知ることはできないのだ、とも語り、しかし、それにもかかわらず、なお、90:13「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」、帰って来てください、戻ってきてください、と願っているのです。それは、いったい、なぜか。
この祈りを祈っている人は、神の怒りと憤りの激しさ、神の審きの厳しさにこそ、神の恵みの深さ、重さがあることを、知っているからです。神が、最も激しく怒りを帯びられ、憤られたその瞬間に、神の憐れみ、慈しみ、恵みがもっとも明らかに鮮やかになるのです。神が、最も激しく怒りを帯びられ、憤られたその瞬間とは、主イエス・キリストの十字架です。主イエス・キリストの十字架は、神の怒りと憤りの頂点であるのと同時に、神の慈しみと憐れみ、愛の頂点です。私どもに望むべき筈であった神の怒りと憤りが、み子主イエス・キリストに臨んだ。それは神の私どもに対する愛の極みなのです。
4.
『新共同訳聖書』は、90:13「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」、と翻訳していますが、ヘブライ語の原文では、「捨てておかれるのですか。」、という言葉はありません。「主よ、帰って来てください。いつまで……」、言葉が途切れているのです。言葉を失っているのです。それほどまでに、激しい戦いを強いられていたのです。神が見えない、神がおられないかのような経験を重ねていたのです。そのような悲しみの中で生まれた祈りです。祈ることを止めなかったのです。そこでこそ、神よ、帰ってきてください、と叫んでいるのです。激しい叫びです。
神よ、帰ってきてください、と叫び、祈らずにはおれない現実は、昔も、今も、変わることがありません。いつまで、この状態が続くのですか、と嘆いているのです。ある聖書の学者は、この祈りが生まれた状況を次のように推測しています。「この詩編は、既に神殿にあって、なお鬱病に悩む者たちのための祈祷文として作られていたのではなかろうか。」。神殿に生きる、信仰に生きる神の民が、所謂心の病を患い、神が見えなくなっている。しかし、そこでなお、祈り続けた。神よ、帰ってきてください。朝を迎えるのが辛い、怖い、そういう人々が祈った祈りなのです。心の病であろうがなかろうが、神よ、帰ってきてください、と叫び、祈らずにはおれないこの現実は、昔も、今も、変わることがない、ということからいえば、この祈りは、私どもの祈りです。
この祈りを祈り続けることができるのは、90:1「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」、神が、私どもの永遠に宿るところである、との信仰に支えられてのことです。永遠に塵の中に伏すのではなく、永遠に神に宿ることができるからです。神は私どもの宿るところ、だからこそ、死に際しても、神の怒りと憤りに際しても、審きの座に立つ時にも、帰ってきてください、と懇願することができるのです。
だから、このモーセは、ただ人生は空しい、儚いと嘆いているのではなく、確かに、一方で、神の人間の罪に対する激しい怒りと憤り、厳しい審きを語りつつ、他方で、神はいつでもどこでも誰に対しても神であり続けていてくださる、神の懐の中に私どもが永遠に住まいを設けることができる神であられることを宣言しているのです。
この神の恵みを信じているからこそ、90:13〜15「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。」、塵に帰るのではなく、神が帰ってきてくださり、力付けてくださり、慈しみに満ち足らせてくださり、神を喜び祝うことができる、と確信しているのです。
この神を喜び祝う礼拝は、90:14「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」、私どもが無防備になっている夜、眠りの中にあっても神に支えられ、朝ごとに与えられ、一生涯、続くのです。甦りの朝、主イエス・キリストがご復活なさった朝です。朝、新しいいのちを戴いて、その日を、新しく始めることができるのです。辛いと思っていた朝、また朝がやってきたと思い煩っていた朝が、神の慈しみ、憐れみに満たされる朝に変わったのです。朝、主イエス・キリストがご復活なさったからです。
この新しいいのちは、90:16「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。」、私どもの子孫にも与えられる。
また、90:17「わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。」、神の懐奥深くに宿り、神とともに歩むことができるようになったから、私どもの手のわざ、この地上のはたらきもまた、ただ空しいものに終わるのではない。神の恵み、主イエス・キリストによる救いの恵みを知った私どもの人生は、儚くはない、軽くはない。私どもの手のわざ、日常のわざが祝福されるのです。私どもは、多くの人々の日常の手のわざによって、支えられている。教会のわざも、また、支えられている。
たとえ、何もできなくなって、人々の手によって支えられて生きざるを得なくなったとしても、手のわざをなし続けることができる。手をあわせることができる、祈ることができる。心の中で手をあわせて祈ることができる。このようなさいわいを、私どもは、戴いているのです。
5.
最後に、90:4「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」、この言葉を、新約聖書ペトロの手紙二が引用しています。ペトロの手紙二3:8「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」。詩編は「千年は一晩」、千年は一日と書きましたが、ペトロの手紙二は、「千年は一日」、と書いただけではなく、「一日は千年」、と書き加えている。詩編が書いていない「一日は千年」、となぜペトロの手紙二は、書いたのか。ペトロの手紙二3:8「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」、主イエス・キリストのもとだからです。主イエス・キリストとともに、神とともに生きている時、たった一日であったとしても、千年のような恵みあふれる時となるのです。
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