説教990 伝道礼拝 2006年10月15日
詩編37:30〜40
ヨハネによる福音書16:4b〜15 「悲しみを越えて与えられる平安」
1.
私どもの教会では、5月に二人の方の葬儀を執り行い、8月には、かつて、日曜学校に通っていた方とその方の甥ごさんの記念会を、この礼拝堂で執り行いました。幾度となく悲しみの涙が流されてまいりました。家族の方たちにとって、喪失感を新たにした時でありました。愛する者との別れ、死別は身を割かれるような痛みが生じます。しかし、私どもが流す悲しみの涙は、悲しみの涙で終わるのではないと繰り返し語ってまいりました。
ヨハネによる福音書16:6「あなたがたの心は悲しみで満たされている。」、救い主主イエス・キリストが、語ってくださった言葉です。あなたがたの心は、悲しみで満たされている。痛み、と訳すことができるほどの悲しみで、弟子たちの心は満たされている。なぜ、弟子たちの心が、痛み、悲しみ、憂いで満たされていたのでしょうか。驚くべきことに、主イエスが語ってくださった言葉が、弟子たちを悲しみへ陥れたのです。
それは、既に、主イエスが、弟子たちがついてくることができないようなところへ去って行かれると予告されたからです。弟子たちが、もう、間もなく、主イエス・キリストと別れざるを得なかったからです。しかも、主イエスが死なれることによって、弟子たちは主イエスと別れざるを得なくなるのです。愛するイエスさまとの別れです。
だから、弟子たちは、心を騒がしていました。心を乱していました。不安だった、心細かったのです。弟子たちのこの気持ちは、私どもにもよくわかります。弟子たちは、主イエスと、3年間、寝食をともにしてきたのです。主イエスが、従ってきなさい、と語ってくださったから、弟子たちは、主イエスについてきたのです。力強い教えを、誰よりも近くで聴くことができたのです。素晴らしい奇跡を、目の当りにしてきたのです。弟子たちは、主イエスと一緒にいることができるとは、なんとしあわせなことかと思ったに違いありません。主イエスが、いつも、自分たちの側にいてくださったから、安心だったのです。しかし、その主イエスが、去って行かれる。もう、そのお姿を、視ることができなくなってしまう。弟子たちにとって、とても寂しいことでした。主イエスのお姿を見ることができないから、心細いのです。
しかし、主イエスが、去って行かれるのにもかかわらず、16:5、弟子たちは、主イエスがどこへ行かれるのか、もう、尋ねようとしなかったのです。なぜ、弟子たちは、主イエスがどこに行かれようとなさっておられたのか、尋ねなかったのでしょうか。いや、尋ねたのです。13:36「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか』」、14:5「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか』」、ついいましがた、弟子ペトロが、弟子トマスが、主イエスに尋ねたばかりです。しかし、ここでは、もう、弟子たちは、尋ねることができなくなっているのです。尋ねる力を失っているのです。刻一刻と、主イエスとの別れが近づいていたからです。だから、もう尋ねる元気さえ、失っていたのです。途方に暮れていたのです。弟子たちは、沈黙していたのです。
しかも、主イエスが、16:2「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」とも語られたからです。迫害の予告です。会堂、ユダヤの会堂から、追放されてしまう、追い出されてしまう。お前たちを、もう神の民とは認めないということです。自分たちの仲間ではないということです。ちょうど、私どもにとって、お前は、もう、日本人ではない、小田原に生きる人間ではない、出て行けと言われるのと同じです。主キリストの教会に生き始めたら、小田原に生きる人間ではないと言われることを、覚悟せざるを得ないようなことを、主イエスは、語られたのです。いや、それだけではありません。あなた方は、殺されてしまう。殉教の予告です。主イエス・キリストが予告なさったように、何人かの弟子たちは、殉教していきました。私どもは、文字通り、信仰に生きているからといって、ここで、誰かに殺されてしまうわけではないでしょう。しかし、教会に生きているがゆえに、味わわざるを得ない苦しみを、私どももまた、経験して、よく知っています。
このヨハネによる福音書を生み出し、ヨハネによる福音書に聴いてきた人々は、私どもの教会堂のように、明るい陽が差し込むところで、礼拝を献げることができたのではありませんでした。カタコンベ、と呼ばれる地下のお墓に隠れて、礼拝を献げたのです。暗い灯火を頼りにして、時には、その灯火を消して、暗闇の中で、礼拝を献げざるを得なかったのです。お墓ですから、棺が納められています。愛する者の体が納められています。自分たちも、何時、殺されるかわからない。殉教の死に脅えつつ、しかし、ここで、主イエスが語ってくださった言葉に、耳を傾けていたのです。殺されるくらいだったら、信仰を捨てよう、主イエス・キリストを信じるのは、もう止めてしまおうということには、ならなかったのです。
主イエス・キリストが、語ってくださった言葉が、脅える人々を支えたのです。忍耐する力を与えたのです。主イエス・キリストが、ここにいてさえくださればと思いたくなるような中で、しかし、人々に、生きる力が与えられたのです。死を越えたいのちを与えたのです。主イエス・キリストが、この地上にいてくださらないことが、信仰に生き、教会に生きる人々を、意気消沈させてしまったのではないのです。私どもも、教会に生きることを、止めたわけではない。主イエス・キリストが、語ってくださった言葉が、さまざまな出来事に脅える私どもを支えているからです。忍耐する力を与えられているからです。主イエス・キリストが、ここにいてさえくだされば、と思いたくなるような中で、しかし、人々に、生きる力が与えられたのです。主イエス・キリストが、ここにいてさえくだされば、と思いたくなるような中で、しかし、私どもにも、生きる力が与えられているのです。主イエスが、弟子たちのところから、去って行かれるということは、主イエスの不在を招いたのではなく、むしろ、主イエスの近さを、弟子たちに、与えたのです。それは、どのようにしてなのでしょうか。
確かに、弟子たちにとって、主イエスのお姿を、視ることができなくなるということは、一度は、悲しみを呼び起こしました。不安を呼び起こしました。明らかに、弟子たちは、心を騒がしていました。主イエスのお姿を、視ることができなくなるから、不安になるのです。主イエスの真実のお姿を見失ってしまうから、心を騒がすのです。神のお姿を見失ってしまうから、心を騒がすのです。もし、主イエスが、神の子救い主であられるのであれば……、もし、神がいらっしゃるのであれば……、という疑いの中で、主イエスの真実のお姿を見失い、神のお姿を見失い、弟子たちは、悲しみ、痛みを覚え、心を騒がしていたのです。私どももさまざまな出来事に出遭い、主イエスの真実のお姿を見失ってしまい、神のお姿を見失ってしまい、心を騒がせることがあります。
2.
そういう私どもに対して、弟子たちに対して、主イエスは、語ってくださいました。14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」、主イエスは、弟子たちとの最後の晩餐の食卓において、まず、14:1「心を騒がせるな。」と語り始めてくださいました。主イエスは、心騒ぐ弟子たちを、誰よりも深くご存じだったからです。主イエスは、心騒ぐ弟子たちは、だらしがないと叱責なさるのではないのです。退けられるのではないのです。それは、13:21「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。」、主イエスご自身が、心を騒がしておられたからです。主イエスご自身が、深い憂いを、覚えておられたからです。だから、心を騒がせ、悲しみに満たされ、憂いを覚えている弟子たちの思いを、汲んでくださり、慰め、励ましてくださるのです。心を騒がせ、悲しみに満たされ、憂いを覚えている私どもの思いを、汲んでくださり、慰め、励ましてくださるのです。どのようにして、慰め、励ましてくださるのでしょうか。
主イエスが、弟子たちとの最後の晩餐を終えられた後、僅かに数時間後、主イエスは、十字架に磔られ、殺されてしまわれます。その時、弟子たちは、皆、逃げ去った。弟子たちは、皆、主イエスのもとから、去って行ったのです。主イエスが、弟子たちのところから、去って行かれる前に、弟子たちが、主イエスのもとから、去って行ったのです。弟子たちにとって、主イエスの十字架の死は、敗北のしるし以外のなにものでもありませんでした。すべてが駄目になってしまったと弟子たちは、思ったに違いありません。人間の眼から視れば、主イエスの十字架の死は、神の救いのみわざが、終わってしまったかのようにしか見えないのです。
ある人は、こう語ります。「弟子たちの目には、そして総じてわれわれ人間の目には、死は、イエスのみわざにひどい打撃を与えたのであり、みわざを中止に追い込んだものとしか見えないのである!」。しかし、その人は、こう語ります。「イエスにとっては、その死は、神に派遣されて来られた道を妨げられたということではなくて、その完成であった。」。だから、言い換えると、主イエス・キリストの十字架の死を悲しむことは、明らかに不信仰なのです。この不信仰をもたらしたのは、死に対する恐怖です。しかし、主イエス・キリストの十字架の死を、真実に悲しんだ人々に、私どもに、主イエス・キリストの復活の勝利によって、慰めが与えられるのです。まことに不思議なことですが、不信仰の中で、信仰が生まれるのです。主イエスを失った悲しみ、痛み、絶望の中で、慰め、喜び、希望が与えられるのです。不信仰に勝る信仰が生まれるのです。一度は、主イエスを捨てて逃げ去ってしまった弟子たちがそうでした。主イエスの十字架の時、なす術なく遠くから見守るしかなかった女性たちがそうでした。悲嘆に明け暮れていた人々に、真っ先に、ご復活された主イエスは、そのお姿をあらわしてくださり、声をかけてくださった。励ましてくださったのでした。一方で、私どもが、主イエス・キリストのお姿を見失い、神のお姿を見失うことは、明らかに、不信仰なのです。しかし、他方で、その不信仰の中で、信仰が与えられる。悲しみの中で、痛みを抱えた中で、神の慰めのみわざが始まるのです。
3.
しかし、主イエスは、追い討ちをかけられるようになさって、16:7「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」、ご自分が弟子たちのところから去って行かれることが、弟子たちのためになる、弟子たちの利益になるとさえ語られたのです。
16:7「実を言うと」、と訳されている言葉は、もともと、真実を言うと、真理を言うと、という言葉が使われています。真実を告げる、真理を告げる、と主イエスは、語っておられるのです。それだけに、重く受け止めるべき主イエスのお言葉です。聴き逃すわけにはいかない主イエスのお言葉です。主イエスが、弟子たちのところから去って行かれることは、弟子たちのためになる、利益になるということは真実、真理なのです。いったい、なぜ、主イエスが、弟子たちのところを離れられて、去って行かれることが、弟子たちのためになる、利益になるのでしょうか。
私どもは、主イエス・キリストを信じて生きる信仰は損得ではない、いわゆるご利益ではないと思い込んでいるところがあります。しかし、主イエスは、はっきりと、弟子たちのためになる、利益になると語られたのです。弟子たちのためになる、利益になる、ということは、私どものためになるのです。
ふつう、私どもは、主イエスが、弟子たちのところから去って行かれることは、決して、弟子たちのためにならないと考えます。むしろ、主イエスが、いつまでも、この地上にとどまり続けてくださり、慰めに満ちた、励ましに満ちた言葉を、語ってくださり、力強いみわざをしてくださった方がよいと考えます。常識的に考えれば、主イエスが、弟子たちのところから去って行かれるのではなく、一緒にいてくださった方が、心強い筈です。私が、ここで説教するよりは、主イエスが、ここに来てくださり、直々に説教を語ってくださり、聴くことができれば、どんなにさいわいかと思います。どんなに効果抜群かと思います。
いつの時代でも同じだと思いますが、なぜ、神を信じることができないのか、主イエス・キリストを信じることができないのか。神のお姿が、主イエス・キリストのお姿が見えないからです。しかし、主イエスは、ご自分が、弟子たちのところから去って行かれることは、弟子たちにとって、ためになる、私どもにとって、利益になると語られたのです。
ためになる、利益になるという言葉を聴いて、思い起こす言葉があります。私どもの教会でも重んじておりますハイデルベルク信仰問答が、繰り返し使っている言葉です。たとえば、問43「キリストの十字架の犠牲と死とから、さらにどんな益が与えられるのですか」、問45「キリストの復活は、我々にどのような益をもたらすのですか」、問49「キリストの昇天は我々にどういう益を与えるのですか」、答「み霊を与えてくださることです」。この問49の答えを導き出している聖書の言葉が、16:7「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」、主イエスが去って行かれなければ、弁護者が弟子たちに与えられない。逆に言うと、主イエスが去って行かれることによって、初めて、弟子たちに、弁護者が弟子たちに与えられるのです。だから、主イエスが去って行かれることが、弟子たちにとって、利益になるのです。弁護者、というのは、この最後の晩餐の食卓において、既に、主イエスが、送ってくださると、何回も、約束してくださった聖霊です。
4.
そこで、聖霊が、どのようなはたらきをしてくださるから、弟子たちにとって、また、私どもにとって、利益なのでしょうか。
16:8「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」、聖霊は、罪について、義について、審きについて、世の過ちを、明らかになさる。聖霊は、人々が抱いている罪、義、審きについての間違いを明らかにされるのです。明らかにする、という言葉は、目を開かせる、という意味をもっています。また、同時に、明らかにするという言葉は、裁判において、被告人の罪を明らかにするという意味の言葉が用いられています。それだけに、断固として、聖霊は、何が、罪であり、義であり、審きであるかを、明らかになさるのです。言い換えると、聖霊は、神の義をもって罪の審きをお始めになられるのです。
罪とは何か。勿論、神の戒めに反することが、すべて罪であり、道徳的倫理的な過ちも、すべて罪ですが、主イエスは、むしろ、16:9「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」、罪とは、ご自分を信じないことであると語られました。ですから、教会改革者マルチン・ルターは、「主イエス・キリストを信じることがなければ、すべては罪なのです。どれほど立派で、聖なるわざであろうと、主イエス・キリストに対する信仰がなければ、すべてが罪である。反対に、主イエス・キリストを信じる者であれば、どれほど大きな罪であっても、すべての罪は覆われ、赦されている。それどころか、主イエス・キリストを信じる者が行うすべてのことは、食べること、飲むこと、目覚めること、あるいは眠ること、すべてがよいわざであり、神が受け入れてくださる、みこころにかなうわざなのである。」とまことに慰めに満ちた言葉を語っております。私どもは、まさに、聖霊のおはたらきのおかげで、自分自身の罪を認める眼を開いて頂いたのです。罪を赦してくださる主イエス・キリストを見つめる眼を与えて頂いたのです。ある人は、こう語っています。「罪は、われわれがイエスを信じないことのなかにあるということを教えられ、その過ちに気づかされた時、罪は既に廃棄されてしまっているのである!」。
罪を罪として明らかにするのが、義、神の義です。16:10「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」、神の義は、主イエス・キリストが、十字架によって死なれ、葬られ、復活され、天に昇られることによって、明らかにされました。神の義が罪を審くのです。
しかし、ただそれだけではありません。この説教の直前に、教会の信仰を、使徒信条によって告白いたしました。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」、主イエス・キリストは、今、天の父なる神の右にいてくださる。主イエス・キリストは、神の右にいてくださり、何をしていてくださるのか。ローマの信徒への手紙8:34「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」、今も、なお、執り成しのわざを続けていてくださるのです。主イエス・キリストご自身が、私どもを弁護していてくださるのです。かつて、地上においては、主イエス・キリストが、ご自分の十字架によって、そして、今は、地上においては、聖霊が、天上においては、主イエス・キリストが、私どものために、執り成していてくださるのです。だから、私どもは、罪に定められることは、最早ないのです。神の前に立つことができる義を戴いて、生きることがゆるされているのです。ルターは、「義が既に心に住みついたかのようです。私どもも既に天の父の右に座しているかのような義です」と語っております。
確かに、神の義は、当然、審きをもたらします。16:11「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」、この世の支配者が断罪されること。この世の支配者、というのは、何も、権力を持っている人たちだけではありません。主イエス・キリストを受け入れないすべての人々です。かつての私どもです。いや、今も、うっかりすると、私どもも、私どもなりに、自分の人生に、小さいかも知れませんが、権力を持ってしまう。権力を、握ってしまうのです。自分の人生は、自分の思い通りにしたい、自分の考え通りにしたい。聖書が、何を語っておろうが、主イエス・キリストが、どう語ってくださっておろうが、神が、どう語ってくださっておろうが、誰が何を言っても、自分の考え通りにしたい。このようにして、私どもも、うっかりすると、支配者になってしまう。自分の人生の支配者になる。権力を持ってしまうのです。そういう私どもが、主イエスによって、断罪される。罪に定められるのです。
5.
しかし、聖霊がお始めになられた審きは、審きで終わるのではないのです。16:7「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」、主イエスが、与えてくださる聖霊が、まさに、弁護者だからです。聖霊は、罪を告発される方であられるのと同時に、弁護してくださる方なのです。 いったい、弁護者、というのは、何でしょうか。裁判所に出ていかなければならない被告人に、弁護人が与えられるように、弟子たちを弁護してくださる、私どもを弁護してくださるのです。なぜ、弟子たちに、私どもに、弁護する者が、必要なのでしょうか。私どもが、被告人だからです。私どもが、被告人、などというのは、穏やかではないかも知れません。しかし、聖霊がはたらいてくださることによって、私どもの罪が明らかになり、それゆえに、審きを受けざるを得ないことが明らかになるのでした。私どもは、神の法廷において、審きを受けざるを得ない罪を背負った人間です。その私どもに、弁護者が与えられるのです。ちょうど、裁判所において、被告人が、弁護士の力によって、罪が軽くなる、無罪が言い渡されるように、私どもは、明らかに、神の法廷、神の前での裁判において、どれだけあがいても、有罪が確定しているのにもかかわらず、弁護人におかげによって、無罪が言い渡されるのです。その弁護者が、私どもに、与えられるのです。
聖霊がはたらいてくださることによって、審きを受けて滅びざるを得ない私どもの罪の審きを、主イエス・キリストが身代わりになってくださり、背負ってくださったことが、明らかになり、私どもには、赦しが与えられるのです。
6.
最後に、ここで、「弁護者」、と訳されている言葉を、『口語訳聖書』や『文語訳聖書』は、「助け主」、と訳しており、明治訳、と呼ばれている『文語訳聖書』は、「慰むる者」、と訳しています。父なる神が、弟子たちに与えてくださる別の弁護者は、助け主、慰める者。弟子たちを助け、慰める者。「弁護者」、「助け主」、「慰むる者」と訳されている言葉は、もともと、呼べば傍らに来る者という意味の言葉です。なぜ、呼ぶのか。不安だからです。心細いからです。自分一人だけで、耐えることができないからです。だから、呼んで、側にいてもらいたい。助けてほしい、慰めてほしい。
間もなく、主イエスは、弟子たちのところから去って行かれる。弟子たちだけが残される。弟子たちは、今まで、主イエスが、自分たちのすぐ側にいてくださったから、安心だったのです。ところが、その主イエスが、去って行かれる。そこで、主イエスは、弟子たちに、呼べば来てくださる助け主、慰める者、弁護者を、遣わしてくださるのです。
主イエスが、弁護者を、お遣わしくださることによって、主イエスは、弟子たちの傍らにいてくださるのです。主イエスは、弟子たちのところから去って行かれて、弟子たちだけを、放っておかれるのではないのです。弟子たちだけを、一人ぼっちにされるのではないのです。主イエスは、14:18「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」、みなし児、みなし児というのは、親のいない子どもたちのことです。主イエスは、弟子たちに、私どもに親を与えてくださると約束してくださいました。私どもにとって親とは、父なる神、母なる教会です。神を父と呼ぶものは、教会を母としてもつのです。神を父よと祈ることができる私どもは、教会の中で養い育まれていくのです。
さらに、14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」、聖霊が、私どもの傍らにいてくださるだけではなく、私どもの内に、心と体の中に、住んでくださるからです。、14:16「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、永遠にです。永遠に、父なる神と主イエス・キリストが、聖霊によって、私どもと一緒にいてくださる。私どもの心と体の中に一緒に住んでくたさり、慰めてくださるのです。私どもが、生きている時にも、死ぬ時にも、聖霊、神さまの霊に包まれている。神さまの霊、聖霊が、私どもに住んでいてくださる。神の審きの座の前に立たされる時にも、聖霊が、一緒にいてくださる。まさに、そこで、私どもを、弁護してくださる。覆い隠すことができない私どもの罪が暴かれる時にも、弁護してくださるのです。
主イエスは、16:13「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」と約束してくださいました。聖霊が与えられる時、真理、主イエス・キリストがいったい、誰であられるのか、主イエス・キリストが語ってくださった言葉を理解することができるようになる。今は、確かに、16:12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」、弟子たちは、主イエスが語ってくださった言葉を理解することができない。しかし、主イエスが、弟子たちのところを去って行かれて、与えてくださる聖霊によって、主イエス・キリストがいったい、誰であられるのか、主イエス・キリストが語ってくださった言葉を理解することができるようになるのです。主イエスが、遣わしてくださる弁護者、即ち、聖霊が、主イエスが語ってくださった言葉を、思い起こさせてくださり、教えてくださり、平安を与えてくださるのです。聖霊が、これまで、主イエスが、弟子たちに、語ってくださった言葉を、思い起こさせてくださり、教えてくださり、平安を与えてくださるのです。主イエスのみ言葉が、聖霊によって、弟子たちに運ばれ、私どもに運ばれる時、平安が、与えられるのです。み言葉の説教を通して、聖霊がはたらいてくださり、私どもを慰め、励まし、立ち上がらせてくださるのです。聖餐に与るとき、聖霊がはたらいてくださり、私どもを慰め、励まし、立ち上がらせてくださるのです。
14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と語り初めてくださった主イエスが、もう一度、14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と語ってくださり、16:6「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」と語ってくださった主イエスが、16:33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」、平和、平安を、約束してくださったのです。私どもは、主イエスが約束してくださった平安を、説教の言葉によって、聖餐によって、頂いているのです。この平安へと、私どもを招いてくださるのです。
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