説教972 2006年10月29日
創世記1:26〜27
フィリピの信徒への手紙2:12〜18「光輝いて生きる私ども」
私どもが、毎週日曜日の礼拝において聴いております聖書は、教会に生きる私どもにとって、とても大切な書物です。信仰に生きる私どもは、日曜日だけではなく、毎日、聖書の言葉に耳を傾けます。一人で、聖書を読んでいて、よくわからないという言葉に、出遭うことがあるかと思います。逆に、その通り、よくわかるという言葉に出遭うこともあるかと思います。
特に、今朝、一緒に聴いた聖書の言葉、新約聖書フィリピの信徒への手紙2:12「…恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」、自分の救いを達成するように努めなさいと言われても、そのようなことが、ほんとうにできるのかと思ってしまいます。自分で自分の救いを獲得することなど、ほんとうにできるのかと思ってしまいます。
いや、むしろ、私どもが、常々、教会において、聴いていることは、自分で自分の救いを獲得することはできないということです。それが、教会の信仰の筋道です。ところが、聖書は、自分の救いを達成するように努めなさいと語るのです。言うまでもなく、教会の信仰の筋道は、聖書に基づいています。一方で、教会の信仰の筋道は、自分で自分の救いを獲得することはできないというものです。しかし、他方で、教会の信仰の筋道を導き出した聖書そのものは、自分の救いを達成するように努めなさいと語るのです。矛盾したことを、語っているのでしょうか。そんなことはない筈です。それなら、なぜ、ここで、自分の救いを達成するように努めなさいとこの手紙の著者パウロは、語っているのでしょうか。
そもそも、ここで、パウロが語っている救いというのは、いったい、何だろうかと思います。
パウロは、ここで、救いとは、いったい何かということを、明らかに語っております。2:15〜16「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」、救いとは、咎められるところのない、聖い者となることであり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きることであると、パウロは語るのです。驚くべき言葉です。私ども自身が、皆さん自身が、咎められるところのない、聖い者となり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きるのです。
しかし、2:12「…恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」、その救いを、達成できるように、努力しなさいとパウロは、勧めるのです。さらに、2:15「そうすれば」とパウロが、語っていることを、聴き逃すわけにはいきません。そうすれば、いったい、どうすれば、私ども自身が、咎められるところのない聖い者となり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きることができるのでしょうか。どうすれば、この救いを、達成できるようになるのでしょうか。
それは、2:14「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」、パウロは、不平や理屈を言わないで、何でも行うことだと言うのです。不平や理屈を言わずに何でも行う、ということが、自分の救いを達成するように努めることなのです。私ども自身の救いが達成されるかどうかが、不平や屁理屈を言わずに何でも行うということに、かかっている、ということなのです。不平を言わず、屁理屈をこねくりまわさないことによって、咎められることがなく、聖い者になることができ、非のうちどころのない神の子として、この世にあって星のように輝くことができると語るのです。
不平を言わない、屁理屈をこねくりまわさないということが、私ども自身が、救われるか否かに関わることであり、咎められることがない、聖い者として、非のうちどころのない神の子として、この世にあって星のように輝くことができるかどうかに関わることだとパウロは、語るのです。
一方で、私どもが、咎められることがない、聖い者として、非のうちどころのない神の子として、この世にあって星のように輝くことができるということは、まことにありがたいことです。しかし、他方で、そのためには、不平や屁理屈を言わずに何でも行うという高い壁、自分で自分の救いを達成するために努力しなければならないという高いハードルがあるように、私どもには思えるのです。困難な道程であると言わざるを得ないのかも知れません。ですから、自分で自分の救いを獲得することなど、ほんとうにできるのかと思ってしまいます。よくわからない言葉です。
しかし、ここで、パウロが、語っている言葉で、私どもにもよくわかる言葉があります。2:15「…よこしまな曲がった時代の中…」、邪な曲がった時代というのは、このフィリピの信徒への手紙が書かれた頃だけではなく、現代も、まさに、邪な曲がった時代です。その通りです。私どもが住んでいる日本だけではなく、世界中いたるところに、邪悪が満ち溢れています。私どもが住んでいるこの世界が、正しい世界であると思っている人々は、ほとんどいないでしょう。理解できない出来事が、次々と起こります。病があり、争いがあり、飢えがあります。毎日、悲惨な出来事が、次々と起こり、多くの人々の血が流され、涙が流されています。矛盾に満ちています。不条理です。邪悪が支配しているように感じる世界です。ですから、邪な曲がった時代という言葉はよくわかります。
しかし、2:15「…よこしまな曲がった時代の中…」、時代と訳されている言葉には、その時代に生きている人々という意味があります。その時代を作り上げている人々が、曲がっているのです。曲がった時代、曲がった社会というのは、結局、人間が作り出したものです。人間が、邪であり、曲がっているのです。しかし、ただ、人間が、邪であり、曲がっているというだけではなく、ただ、この世の中が乱れているというだけでもなく、神に対して曲がっているのです。神に対して真っ直ではないのです、歪んでいるのです。神が語ってくださる言葉に対して、真っ直ではないのです、曲がっているのです、歪んでいるのです。
今朝、旧約聖書創世記1:26〜27に記されている言葉にも、耳を傾けました。創世記1:26〜27「…『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』…神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。…」、人間は、神にかたどって、造られました。かたどって、という言葉は、向き合う、応答するという意味をもった言葉です。もともと、人間は、神に向き合う存在として造られました。神に応答する存在として造られました。神が人間に呼びかけてくださると、人間が応える、人間が神に呼びかけると、神が応えてくださるという関係に造られたのです。ところが、人間は、神に応える、神に呼びかけて生きるということを、拒否した。神に対して、真っ直ではないのです、曲がってしまった、歪んでしまったのです。神が語ってくださる言葉に対して、真っ直ではないのです、曲がっているのです、歪んでいるのです。神が語ってくださる言葉を、真っ直に聴き取ることができない、曲がって、受け止めてしまう、歪んで、受け止めてしまうのです。隣人が語る言葉も、真っ直に聴き取ることができない、曲がって、受け止めてしまう、歪んで受け止めてしまうのです。だから、恨みが生じる、憎しみが生まれる、蔑みが生じるのです。どうして、真っ直に聴き取ることができないのか、曲げて受け止めるのか、歪めて受け止めるのか、言葉が通じず情けない思いをすることがあるかと思います。決して、私どもの外に、邪な、曲がった時代があるのではなく、私ども自身の中に、邪な、曲がった時代の陰がある。いや、私ども自身の神の言葉に対する歪みや、隣人に対する拗じ曲がった思いが、邪な、曲がった時代を作り上げているのです。
このような邪な、曲がった時代のただ中にあって、私どもは、咎められるところのない、聖い者となり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きているとパウロは語るのです。言い換えると、教会は、邪な、曲がった時代のただ中にあるということです。神を信じて生きる、主イエス・キリストを信じて、教会に生きるということは、邪な、曲がった時代のただ中に生きる人々との関わりを断ち切って、生きることなのではないのです。邪な、曲がった時代のただ中にあって、信仰の生活を続けていくのです。だからこそ、パウロと並んで初代の教会のたいへん優れた伝道者ペトロは、使徒言行録2:40「邪悪なこの時代から救われなさい。」と語ったのです。邪悪なこの時代から救われなさいという言葉は、邪悪なこの時代から逃げ出しなさいという意味ではありません。邪悪なこの時代のただ中にあって、神を信じる信仰者として生かされていくのです。だから、輝くのです。星の輝きのような存在となって、輝いて生かされるのです。まわりが暗いからです。邪悪な時代は、暗いのです。邪な、曲がった時代は、暗いのです。ですから、私どもは、光輝いて生きることができるのです。
主イエス・キリストは、ご自分が世の光であると語ってくださいました。同時に、あなた方も、また、同時に、世の光であると宣言してくださいました。私どもは、主イエス・キリストが語ってくださったように、世の光として、星の輝きのようにして、生かされているのです。驚くべき恵みです。いったい、私どものどこに、光輝くところがあるのだろうかと思ってしまいます。しかし、神は、私どもを、光輝いて生きているとご覧になってくださるのです。まことに辱い思いがいたします。
パウロは、フィリピの信徒への手紙2:14「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」、そうすれば、2:15〜16「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」、咎められるところのない、聖い者となり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きることができると語りました。
理屈を言うという言葉は、もともと、対話する、という意味の言葉だ、と語りました。誰と対話するのか。自分自身です。その結果、理屈、屁理屈を言うのです。神と対話することを止めて、自分自身とだけ対話する時に、私どもは、過ちを犯す。不平不満の虜になってしまうのです。私どもは、いくらでも不平を並べたて、理屈をこねる。自分には、不平を言う権利があると思い上がり、呟く権利があると思い上がり、自分を正当化し、他を裁く。いや、不平を並べたてているのではない、理屈をこねているのでもないとさえ思ってしまうのです。それは、明らかな、私ども自身の罪です。しかし、それをやめなさいとパウロは、勧めるのです。これは厳しい信仰の戦いです。けれども、そのように努力することが求められているのです。
それが、2:12「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」、パウロが語った従順です。神の言葉に対する従順です。神の言葉に真っ直になるのです。神の言葉を曲げて、受け止めない、歪んで受け止めない。自分自身とだけ対話するのではなく、2:16「命の言葉をしっかり保つでしょう。」、いのちの言葉、神の言葉を聴いて、保ち、神と対話する、神が語ってくださる言葉に耳を傾け、祈りを献げて生きる、従順に生きる時、咎められるところのない、聖い者となり、非のうちどころのない神の子として、星の輝きのような存在となって、この世に生きることができるのです。
この救いを、2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」、私どもの中で、神が始めてくださり、完成へと導いてくださるのです。私どもの心と体の中に、神の言葉を求める思いを与えてくださったのは、神ご自身です。神の言葉に対して、従順ならしめてくださったのは、神ご自身です。いのちの言葉を保たせてくださったのも、神ご自身です。私どもの心がよかったわけではありません。私どもの行いがよかったわけでもありません。私どもの何かが、神さまの前で評価されたわけでもありません。ただ、神が、私どもを選んでくださり、救いの言葉を聴かせてくださり、信仰を与えてくださったのです。だから、信仰は、神さまの恵みなのです。だから、ありがたいものなのです。だから、畏れおののくのです。
パウロは、2:14「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」、不平や屁理屈を言わずに何でも行いなさいと命じました。しかし、2:15〜16「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」、咎められるところのない、聖い者となりなさいと命じたのではありません。非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝きなさいと命じたのでもありません。パウロは、命令しているのではなく、約束を宣言しているのです。あなた方は、咎められるところのない、聖い者であり、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝いていると宣言しているのです。
咎められるところがないという言葉の意味は、神がご覧になってくださって、咎められるところがない、責められるところがないという意味です。聖いものという言葉の意味は、混じり気がない、純粋なという意味です。非のうちどころがないという言葉の意味は、傷がないという意味で、神に犠牲を献げる時に用いられた言葉です。これらの3つの言葉は、ただ道徳的に、咎められるところがなく、聖く、非のうちどころがないという意味ではなく、これらの3つの言葉に共通していることは、神への献げものとしての相応しさをあらわす言葉なのです。言い換えると、私どもは、神に献げられたものとして生かされている、神のものであるということなのです。神のもの、神の民、神の子であるということなのです。
そこで、最後に、2:15「…神の子…」という言葉があります。子という言葉は、もともと、生まれた者という言葉です。神から生まれた者なのです。それが、神の子なのです。自分の努力によって、神の子になるのではなく、神が、私どもを、神の子として、産んでくださるのです。邪な、曲がった時代の中で、私ども自身には、神の実になる力など全くありませんから、神ご自身が、私どもを、ご自分の子どもとして、産んでくださるのです。勿論、本来、唯一の神の子は、救い主イエス・キリストご自身だけです。その神の子主イエス・キリストご自身と並んで、私どももまた、神の子として、生きるのです。
なぜ、私どもは、父なる神、と呼びかけて祈るのか。私どもが、父の子どもだからです。子どもであるからこそ、父よ、呼びかけることができるのです。神を呼びながら、生きる者へと変えられたのです。
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