説教973 2006年11月 5日
箴言4:10〜18
フィリピの信徒への手紙2:12〜18「あなたの人生は無駄ではない」
私どもの人生とは、いったい、何か。昔から、人生は、いろいろなことに喩えられてきました。新約聖書フィリピの信徒への手紙は、2:16「…自分が走ったこと…」という言葉がありますように、人生は、走ることであると語ります。このフィリピの信徒への手紙の著者パウロ、初代の教会のたいへん優れた伝道者パウロは、自分の人生は走ることであると語っています。パウロにとって、人生とは、ゆっくりと、歩くことではなく、走ること、ひたすらに走り続けることであったのです。聴いているだけで、しんどくなってしまいそうです。走り続けて、疲れ果てたので、教会に来た、歩き続けて、疲れ果てたので、礼拝に出席したという方たちもあるかも知れません。一週間の生活に走り続けて、暫くの休息、安息を、礼拝において頂戴し、また、私どもは、歩き始める、走り始めるのです。そういうところで、人生は、ひたすらに走り続けることであると言われると、それだけで、疲れてしまうということになるかも知れません。
勿論、ただ、むやみやたらに、闇雲に、走り続けるのではありません。パウロが、このフィリピの信徒への手紙の3:14「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と語っておりますように、目標を目指してひたすら走ることが、私どもの人生なのです。人生には、目標があるということです。その目標に向かって、ひたすらに走り続けるのです。言い換えると、何のために、走り続けるかということが、私どもに、問われているのです。皆さんが、あなたの人生の目標は、いったい、何ですかと問われたら、どのように答えるでしょうか。あなたは、いったい、何のために生きているのですかと問われたら、どのように答えるでしょうか。
何のために、走っているのか、わからなくなってしまったら、それだけで、疲れ果てるでしょう。何のために、人生を送っているのか、わからなくなってしまったら、まことに空しいと言わざるを得ません。しかし、うっかりすると、自分の人生の目標がわからなくなり、我武者羅に働き続けてきたけれども、ふと気がついたら、いったい、何のために働き、何のために走り続け、毎日、何のためにこんなにあくせくしているのだろうかと呟くことになりかねません。人生、送ってきたけれども、無駄だったということになると、こんなに空しいことはありません。走り続けていることが、無駄だったということになると、こんなに空しいことはありません。ですから、目標を見定めて、ひたすらに走り続けるということがとても大切です。目標を見失ったら、途中で、歩けばよい、止まればよいのです。しかし、うっかりすると、私どもは、自分の人生が無駄であるかどうかということは、勿論のこと、自分の人生の目的さえ、考えない、そんな余裕などないということになってしまっているのかも知れません。
そういうところで、パウロは、2:16b「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」、自分が走り続けてきたことが、無駄ではない、労苦したことも無駄ではないと語っています。無駄ではない人生がある、苦労したことが無駄に終わるのではない人生があると私どもに向かって語りかけているのです。
ここで、聴き逃すことができない言葉を、パウロは、語っています。それは、2:16b「…労苦したことも無駄ではなかった…」、人生には、労苦があるということです。神を信じ、救い主主イエス・キリストを信じて生き始めたら、苦労が吹き飛んでなくなったと語っているのではないのです。苦労があるのです。しかし、苦労が、無駄で終わるのではないとパウロは、語るのです。
私どもも、自分の人生を振り返った時、無駄ではなかった、苦労したことも、無駄ではなかったと言えたら、どんなに仕合わせか、と思います。
それでは、パウロにとって、人生の目標は、いったい、何であったのでしょうか。何を目標として、ひたすらに走り続け、これからも走り続けようとしていたのでしょうか。パウロは、いったい、何のために生きてきたのでしょうか。
1:20〜21「…これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とパウロ自身が語ったように、先ず、何よりも、自分自身が、生きるにしても、死ぬにしても、主イエス・キリストを崇めることであり、多くの人々に、主イエス・キリストが、崇められるようになること、主イエス・キリストが、神として、礼拝されるようになることでした。1:25「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」、フィリピの教会に生きる人々の信仰を深めて、信仰に生きる喜びを与えることが、パウロの人生の目標でした。伝道者パウロ、牧師パウロとしては、当然です。
しかし、パウロ自身が、1:20「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」、1:23「…一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」と語っておりますように、パウロにとって、この世を去ること、死ぬことが、ほんとうは、パウロに、利益をもたらすことであったのです。主イエス・キリストとともにいることができるという利益です。
しかし、1:22〜23「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。…」、1:24「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」とパウロは、語り、結局、この地上にとどまって、生きることを決断したのでした。自分の利益を求めてではなく、フィリピの教会に生きる人々の利益を考えての結果でした。言い換えると、パウロの人生の目的は、ただ、自分に利益をもたらすのではなくて、ともに生きる隣人、フィリピの教会に生きる人々に、利益をもたらすことであったのです。パウロの人生の目的は、ただ、自分だけがしあわせになることなのではなくて、フィリピの教会に生きる人々、ともに生きる隣人がしあわせになることであったのです。そのしあわせとは、いったい、何であったのか。
1:25「…あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらす…」、1:26「…キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」、フィリピの教会に生きる人々、ともに生きる隣人の信仰を深めること、信仰に生きる喜びをもたらすことでした。主イエス・キリストに結ばれているという誇りを、増し加わらせることでした。
繰り返します。パウロの人生の目的は、ただ、自分に利益をもたらすのではなくて、ともに生きる隣人、フィリピの教会に生きる人々に利益をもたらすことであったのです。パウロの人生の目的は、ただ、自分だけがしあわせになることなのではなくて、フィリピの教会に生きる人々、ともに生きる隣人がしあわせになることであったのです。そのしあわせとは、信仰を深めること、信仰に生きる喜びをもたらすこと、主イエス・キリストに結ばれているという誇りを、増し加わらせることだったのです。
いったい、パウロが、何のために走ってきたか、これまで、走ってき、こらからも、走り続けようとしていたのか。自分の目的、自分の利益なのではなくて、フィリピの教会に生きる人々、ともに生きる隣人に、信仰を深め、信仰に生きる喜びをもたらし、主イエス・キリストに結ばれているという誇りを、増し加わらせることだったのです。主イエス・キリストの目的、神の目的をパウロは、自分自身の目的としたのです。主イエス・キリストのために生きるかどうか、神のために生きるかどうかということだったのです。
しかも、パウロが、そのように生き始め、生き得た時に、パウロがパウロでなくなってしまう、自分が自分でなくなってしまうのではなく、1:22「…実り多い働きができ…」、1:25「…あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらす…」1:26「…キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」、伝道者として、パウロは、まことにパウロらしく、生きることができるのです。
確かに、自分なりに人生の目的を掲げ、さまざまな功績をあげて生きる、業績をあげて生きる、この世の価値判断を基準にして生きる時、無駄ではなかったと言える人生もあるのかも知れません。しかし、ただ、自分の目的、自分の願いを叶えることだけに生きている時、その人生の苦労は、無駄に終わることがあるかも知れませんし、人生そのものが、無駄であるかも知れません。大切なことは、ともに生きる隣人の役に立っているかどうかとういうこと、神のお役に立っているかどうかということなのです。しかし、いったい、こんな自分が、神のお役に立っているかどうか、ともに生きる隣人の役に立っているかどうか、などと言われると、まことに心もとない思いがする、というのが、私どもの正直な思いであると思います。しかし、たとえ、家族の助けを受け、隣人の世話になりながらの人生であったとしても、神のお役に立って生きることが、私どもには、できるのです。ですから、私どもの人生は、無駄ではないし、労苦もまた、無駄に終わらないのです。たとえ、誰も見向きもしないような私どもの人生であったとしても、だれからも評価を受けないような私どもの人生であったとしても、2:15「…とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」、私どもは、咎められるところのない、聖い者、神の者となり、非のうちどころのない神の子として、星のように輝いて生きることができるのです。
さて、そこで、神のお役に立ち、ともに生きる隣人の役に立つ、言い換えると、神にお仕えし、隣人に仕えて、生きる、ひたすらに走るためには、どのようにしたらよいのでしょうか。朝から晩まで、神のことを考え、ともに生きる隣人のことを考えることなのでしようか。そういうこともあるかも知れませんが、神が、私どもに与えてくださった使命、務めを、忠実に果たすということです。教会改革者マルチン・ルターが語ったとされる一つの言葉があります。「たとえ、明日、この世が終わるとしても、私は、林檎の木を植える。」。神が、与えてくださった使命、務めを、忠実に果たすということです。
2:16「…キリストの日に誇ることができるでしょう。」とパウロは、語っています。キリストの日というのは、いったい、どういう日なのでしょうか。主イエス・キリストが、再び来てくださる日です。最後の審判が執り行われる日です。再臨、終末、と呼ばれてきた日です。私どもが、神の前に立たされる日です。いや、私どもが死ぬ日、私どもは、神の前に立たされます。その時、いったい、何が行われるのでしょうか。
コリントの信徒への手紙二5:10「…わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」、審きを受ける。一方で、パウロが語ったこの言葉は、私どもに、恐怖をもたらします。
しかし、他方で、パウロは、断言するのです。フィリピの信徒への手紙2:16「…こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」、自分がひたすら走ってきたこと、ひたすらに伝道者として生きてきたことが、無駄ではない、その苦労も無駄に終わるのではない。いや、それどころではありません。誇ることさえできると語るのです。
主イエス・キリストの日、主イエス・キリストが、再び来てくださって、最後の審判を執り行ってくださる日、私どもは、神の前に立たされます。いや、私どもが死ぬ日、私どもは、神の前に立たされます。一方で、私どもに恐怖をもたらします。しかし、他方で、パウロは、誇ることができる、堂々と、神の前に、立つことができると断言するのです。
聴き方によっては、パウロは、傲慢だ、と言えるのかも知れません。パウロは、確かに、優れた伝道者でした。パウロは、立派な伝道者だったから、このように言い切ることができたのでしょうか。そんなことはない。パウロは、テモテへの手紙一1:15「…わたしは、その罪人の中で最たる者です。」、罪人の中で最たる者、罪人の頭と語りました。確かに、パウロは、優れた伝道者でした。しかし、パウロは、伝道者としての自分自身の功績を、ここで、誇っているのではありません。
フィリピの信徒への手紙2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」、神が、パウロに、はたらきかけてくださり、神が、パウロに、行わせる力を与えてくださったのです。1:6「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」、ここにも、キリスト・イエスの日という言葉が記されています。主イエス・キリストの日までに、パウロの中で、善いわざを始めてくださった神が、その善いわざを成し遂げてくださるのです。パウロは、決して、自分自身を誇っているのでない。神がなさってくださったことを、誇っているのです。神を誇っているのです。
神がなさってくださったこと、それは、先ず、何よりも、神が、主イエス・キリストを私どもに与えてくださったことです。神がなさってくださったこと、それが、神の愛です。クリスマス、十字架の死、イースターの出来事を通して明らかになった神の愛です。神の愛を、パウロは、誇っているのでり、神の愛、神の恵みのわざ、十字架にあらわされた神の愛が、無駄になる筈がないのです。
ですから、パウロは、こう語りました。1:26「…キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇り」、主イエス・キリストに結ばれているという誇り。私は、主イエス・キリストに結ばれている。神に結ばれている。主イエス・キリストに結ばれ、神に結ばれているという誇りを戴いている。私の誇りは、主イエス・キリストに結ばれ、神に結ばれていること。クリスマス、十字架の死、イースターの出来事を通して明らかになった神の愛によって、私は、主イエス・キリストに結ばれ、神に結ばれているという誇りを戴いている。
しかも、ここで、誇り、と訳されている言葉は、もともと、喜ぶ、深い喜びを感じるという言葉が用いられています。神が、主イエス・キリストを通じて、自分を、神に結び付けてくださったことを、深く喜んでいるのです。だから、誇りなのです。
だからこそ、パウロにとって、1:20「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」、死ぬことは利益なのです。死んだら、主イエス・キリストから離れてしまうというのではなく、1:23「…一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」、むしろ、主イエス・キリストに結ばれていることを、より深く知ることができるのです。勿論、この地上に於いても、パウロは、主イエス・キリストに結ばれている喜びを、十分知っておりました。だからこそ、死によって途切れることのない主イエス・キリストに結ばれている喜びを、伝え続けたのです。この救いの恵みを伝えることが、パウロに与えられた神からの使命、務めだったのです。人々に、信仰に生きる喜び、神とともに生きる喜びを伝えることが、パウロに与えられた神からの使命、務めだったのです。人々に利益をもたらす務めだったのです。私どもも、また、パウロと同じ務めを戴いている。この使命、この務めに生かされている私どもの人生は無駄ではないのです。星の輝きのように、私どもは、生きることができるのです。