説教 2006年 2月19日
出エジプト記19:3〜6
フィリピの信徒への手紙1:1〜2「小田原にいるすべての聖なる者たち」
1.
今から12年前、1994年2月〜3月にかけて、私は、初めて飛行機に乗りました。私は、高所恐怖症ですから、手に汗を握っての長い時間でした。東京神学大学から奨学資金を戴いて、聖書の国々を、2週間弱かけて、訪ねました。聖書の国々といっても、エジプトとイスラエル、2か国の訪問でした。エジプトからイスラエルには、スエズ運河の下をトンネルで抜けて、出エジプトのコースを辿って入りました。日本語のとても流暢なガイドが、スエズ運河を抜けた瞬間、アフリカ大陸から、あなた方、日本のあるアジアに入りました、と大きな声で伝えてくれたことを、よく覚えています。イスラエルはアジア。キリスト教会は、欧米の信仰、ヨーロッパやアメリカに誕生した信仰ではなく、アジアの西の端で生れたのです。キリスト教会は、アジアで生まれた、そう思うだけで、心が熱くなりました。しかし、アジア大陸の西の端イスラエルから、日本に伝わるまでは、とても長い時間がかかりました。アジア大陸を、直接、西から東へ横断して、伝えられたのではなく、ヨーロッパ大陸にわたり、イギリス、アメリカ大陸、アジア大陸、そして、ついに、日本に伝わったのでした。1549年、ローマ・カトリック教会最初の宣教師フランシスコ・ザビエル宣教師が、日本に遣わされました。しかし、その後の長く厳しい鎖国時代・禁教時代を経て、1859年、プロテスタント教会最初の宣教師が、漸く、日本に遣わされ、1872年、明治5年、2月、日本で最初のプロテスタント教会が、横浜に誕生したのでした。
私ども日本の教会の歴史を遡ってまいりますと、当然、世界で最初の教会、エルサレムに誕生した教会に遡ることができます。勿論、エルサレムの教会は、世界最初の教会であり、アジア最初の教会です。アジアからヨーロッパに福音が宣べ伝えられ、ヨーロッパ最初の教会が誕生したのは、フィリピ、という場所でした。
このヨーロッパ最初の教会フィリピの教会に宛てて書かれた手紙が、今日から、日曜日の礼拝において、説教を語っていくことになった新約聖書フィリピの信徒への手紙です。伝道者パウロ、初代教会のたいへん優れた伝道者パウロが、フィリピの教会に宛てて書き送った手紙です。
私どもが、先週の日曜日の礼拝において、聴き終えたガラテヤの信徒への手紙も、パウロが書いた手紙でした。ガラテヤの信徒への手紙は闘いの手紙、と呼ばれておりますように、たいへん激しい、厳しい言葉が記されておりました。正直なことを申しまして、ガラテヤの信徒への手紙から説教を語る、ということは、私にとっても、とても厳しいことでした。いったい、この厳しい言葉から、どういう説教、福音の言葉、喜びの知らせを語ることができるのだろうか、ずいぶん苦労しました。長老会会議において、ガラテヤの信徒への手紙の連続講解説教が終わった次は、フィリピの信徒への手紙の連続講解説教に入る、ということが可決されてから、一日も早く、フィリピの信徒への手紙から、皆さんと一緒に神の言葉を聴きたい、そう思ったことでした。
ガラテヤの信徒への手紙は闘いの手紙と呼ばれ、フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙、と呼ばれてまいりました。フィリピの信徒への手紙は、全部で4章から成っております短い手紙です。しかし、16回も、「喜び」という言葉が記されています。それで、フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙、と呼ばれるようになりました。信仰に生きる喜び、救い主主イエス・キリストによって救われた喜び、教会に生きる喜びが、とても豊かに記されている手紙です。パウロが、喜びに満たされて、喜んで、福音を語り、フィリピの教会に生きる人々が、パウロが語る言葉に喜んで耳を傾けたように、私どもにも、また、このフィリピの信徒への手紙に耳を傾ける時、信仰に生きる喜び、救い主主イエス・キリストによって救われた喜び、教会に生きる喜びが、与えられるのです。
パウロは、大きな伝道旅行を3回いたしました。地中海沿岸をめぐっての伝道旅行でした。その第2回目の伝道旅行の時に、パウロは、初めてフィリピへ行き、説教を語り始めました。ヨーロッパ最初の伝道地フィリピにおいて、説教を聴き、洗礼を受けたのは、いったい、誰であったのか。リディア、という女性でした。ヨーロッパ最初の教会の最初の受洗者は、女性であった。主キリストの教会の歴史は、女性たちによって、拓かれ、担われてきた、ということを、改めて知ります。私どもの救い主主イエス・キリストの最も大切な時、十字架の死、埋葬、復活、すべてに立ち会ったのは、主イエスの12人の男性の弟子たちではなく、女性たちでした。
私どもの教会は、1897年、明治30年に伝道を始めました。苦労に次ぐ苦労の連続でした。特に、関東大震災を挟んでの2年半、牧師がおらず、植木とし、という女性の教会員が、自宅に小田原基督同胞教会の看板を掲げて日曜学校を行い、教会を守ったのでした。城下町小田原において、自宅にキリスト教会の看板を掲げる、ということが、いったい、どういうことを意味するのか。迫害を辞さない、殉教を辞さない、ということです。この日曜学校に通っていた少女が、やがて洗礼を受け、今、私どもの教会の最高年齢者の教会員として、教会生活を送っています。私どもの教会も、また、一人の女性の教会員のよいはたらきによって支えられました。
ヨーロッパ最初の教会の最初の受洗者は、リディア、という女性でした。リディアとともに家族も洗礼を受け、リディアの家が、フィリピの教会になりました。このようにして、ヨーロッパ最初の教会が、フィリピに誕生したのです。パウロのフィリピにおける伝道のようすは、新約聖書使徒言行録第16章が詳しく記しております。このフィリピの教会に、パウロが書き送った手紙がフィリピの信徒への手紙です。
2.
1:1「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。」、まず、パウロは、自己紹介をしております。自分は、主イエス・キリストの僕である。パウロは、自己紹介する時に、まず真っ先に、主イエス・キリストの僕、というのです。自分は、フィリピの教会の創立者パウロである、と語ったのではなく、主イエス・キリストの僕である、と語ったのです。主イエス・キリストの僕である、ということが、最も大切なことと思って、このように書いたのです。しかも、僕、と訳されている言葉は、奴隷、という言葉です。パウロは、自分は、主イエス・キリストの僕、奴隷である、と語っているのです。勿論、嫌々渋々、主イエス・キリストの僕、奴隷である、と語ったのではなく、喜んで、語っているのです。
しかし、このフィリピの信徒への手紙は、おそらく、パウロが、ローマの獄に繋ぎ留められていた時、パウロの晩年に、書かれたと推測されています。獄中で書かれ、殉教の死が近づいている中で、パウロは、喜んで、自分は、主イエス・キリストの僕、奴隷である、と語ったのです。しかも、かつて、パウロが、フィリピで伝道した時、フィリピにおいても、獄に繋ぎ留められたのでした。ローマ帝国の囚人として、獄に繋ぎ留められることが、どれほど不自由なことであるか、身をもって経験していたのです。パウロは、捕えられ、繋ぎ留められていることの辛さを、誰よりもよく知っていた筈です。奴隷がどのようなものであるか、よく知っていた筈です。そのパウロが、なお、自分は、主イエス・キリストの僕、奴隷である、と語ったのです。
聖書は、解放を告げる書物です。捕われていることから解き放たれる救いを、告げます。しかし、それにもかかわらず、パウロが、僕、奴隷である、と語っていることは、とても大事なことです。
確かに、パウロは、獄に繋ぎ留められてはいましたが、自分は、主イエス・キリストの僕、主イエス・キリストに繋ぎ留められている、主イエス・キリストに深く結びついている喜びを語っているのです。ローマ帝国に支配されているのではない、主イエス・キリストの守りの中にあることを、確信しているのです。獄の中に繋ぎ留められているパウロが、獄の中に繋ぎ留められている信仰者が、どのような信仰を言い表したか。ローマ帝国の囚人、ローマ帝国の奴隷ではない、主イエス・キリストの僕、主イエス・キリストにしっかりと、繋がれている、結ばれている。主イエス・キリストとともに生きている、という喜びを、主イエス・キリストの僕である、と言い表したのです。
しかも、1:12〜14「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」、パウロが、獄に繋ぎ留められていた結果、かえって、福音が、獄の中にいて一緒に繋ぎ留められている人々だけではなく、獄の外にいる人々にも勇気を与え、福音を語ることができるようになったのです。そのようにして、主イエス・キリストに用いられている喜び、主イエス・キリストのお役に立った喜びを、パウロは、語っています。獄にあることが、誰の役に立ったか。主イエス・キリストのお役に立った。私どもは、神が、自分の役に立つか立たないかで、判断してしまうことがあります。救い主主イエス・キリストが、自分の役に立つか立たないかで、判断してしまうことがあります。自分が主人公になってしまうのです。ここに、私どもの我が侭、自分中心、罪を見い出します。しかし、パウロは、違う。主イエス・キリストが、自分の役に立つか立たないかではなくて、自分が、主イエス・キリストのお役に立っているかどうか、神のお役に立っているかどうか。
パウロは、神を信じ、主イエス・キリストを信じ、聖霊におはたらきによって信仰を与えられると、たちどころに、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、痛みなどから解き放たれて、苦しみも悲しみもない、楽しい嬉しい生活が、手に入った、と語っているのではありません。そうではなく、そのような苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、痛みなどを抱えながら、しかし、主イエス・キリストに結ばれている信仰に生きる喜びを、語っているのです。私どもに向かって、あなた方も、この喜びの中に生きることができる、と招いているのです。
確かに、私どもは、獄に繋がれているわけではありません。しかし、さまざまな捕らわれの中に生きている私どもです。さまざまなこだわりの中で生きている私どもです。苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、痛みなど、さまざまなことに捕らわれてしまう私どもです。自分の将来、健康に対する不安、親、子ども、家族、人間関係、仕事、進学、勉強、お金、家、あげればきりがないほどです。一つ一つに責任を持っています。好い加減な態度で関るわけにはいかない、疎かにすることができない大切な事柄です。しかし、いつの間にか、お金に支配されてしまう、地位や名誉の虜になってしまう。
しかも、私どもは、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさ、痛みなど、さまざまなことに捕らわれてしまう、ということについては、敏感です。しかし、かつて、罪の奴隷、支配の下にあった、ということについては、案外、鈍いところがあるのではないか。だからこそ、今年4月から始まります2006年度から、日曜日の礼拝において、十戒を用いようとしているのです。それは、私ども自身の罪に気がつくためにです。
私どもは、奴隷になってはいけない、人の奴隷、お金の奴隷、権力の奴隷、欲望の奴隷になってはいけない、とよく言います。しかし、かつて、パウロは、奴隷であった、律法、神の戒め、掟の奴隷であった。律法を守らなければ、絶対に救われないと、考えていた。律法の行いに、雁字搦めに縛られていた。律法の奴隷であった。律法の行いによって、救われると考えていたのです。行いによって、救われるとなると、きちんといい行いができているかどうか、不安でビクビクせざるをえなくなるのです。行いによって救われると考えるところには、本当の平安はない。しかし、主イエス・キリストを信じる信仰によって、罪の審きから救われることを知った。信仰によって、罪の奴隷から、救われることを知ったのです。だからこそ、パウロは、主イエス・キリストの僕、奴隷、自分は、主イエス・キリストの者なのだ、と語るのです。
主イエス・キリストの僕、奴隷、しかし、主イエス・キリストによって、力ずくで、無理矢理、嫌々、強制されて、奴隷にさせられた、というのではありません。主人に、嫌々、服従する、主人に反抗したならば、追い出されてしまう、生きる術を、生きる糧を失ってしまう、だから、主人に仕えるというのではありません。そうではなくて、既に、救われた、恵みを受けた。主イエス・キリストの十字架にあらわされた愛によって、恵みによって、選ばれて、僕とされた。どうしようもない罪の奴隷から解放された。だから、喜んで、仕えるのだ、僕として仕えるのだ、とパウロは、語るのです。だからこそ、たとえ、獄に繋ぎ留められていても、主イエス・キリストによって抱き抱えられている喜びを、書くことができたのです。
3.
パウロは、あなた方も、主イエス・キリストの僕である、と呼びかけているのです。言い換えると、パウロは、私どもに向かって、あななた方は、いったい、誰のものなのか、と問うているのです。
1:1「…フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち…」、とパウロは、宣言するのです。小田原にいて、主イエス・キリストに結ばれているすべての聖なる者たち、と私どもに向かって、宣言しているのです。私どもも、主イエス・キリストの僕であるからこそ、私どもも、主イエス・キリストに結ばれている、だからこそ、聖なる者なのです。
1:1「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。」、パウロだけが、主イエス・キリストにしっかりと結びついている主イエス・キリストの僕なのではない。テモテも、また、同じ。テモテ、というのは、パウロよりも年が若い伝道者、牧師でした。パウロとともに伝道に励んだ人でした。パウロにとって、テモテは、どれだけ大きな支えになったことか、と思います。一人で伝道しているのではない。傍らにテモテがいてくれる。伝道、というのは、牧師一人でするものではありません。教会全体で行うものです。ですから、昔から、家庭訪問や病床訪問も、パウロとテモテのように、二人、二人以上でしたのです。一人が倒れそうになった時、傍らにいるもう一人が支えたのです。フィリピには、そのように牧師を支える人々がいました。監督たちと奉仕者たちです。今の教会の言葉でいえば、長老と執事です。リディアが、最初の受洗者になって誕生したフィリピの教会は、長老と執事が支えるほどまでに成長していたのです。
監督も、奉仕者も、教会員も、すべて主イエス・キリストに結ばれている聖なる人々である、とパウロは、宣言するのです。あなた方、フィリピイの教会において、主イエス・キリストを信じている人々も、自分と同じように、主イエス・キリストに結ばれて、聖なる者、神の者になっているのだ、とパウロは、語ったのです。私どもも、また、神のみ心によって、主イエス・キリストに結ばれた聖なる者、神の民なのです。日本にいる、聖なる人々、神の民、主イエス・キリストに結ばれている人々へ、とパウロは、時代を越えて、呼びかけているのです。聖なる者、と訳されている言葉は、ただ、神の者、という意味だけではなく、神から委ねられた目的のために、神によって、選び分けられた、という意味を持っています。使徒としてパウロだけに、神から委ねられた務めがあるのではなく、フィリピの教会に生きる人々にも、私どもに、神から委ねられた務めがあるのです。
フィリピの信徒への手紙の冒頭に記されている言葉に耳を傾ける時、改めて、私どもが、いったい、何者なのか、ということを、知らされます。私どもは、聖なる者、神の者、神から務めを委ねられた者、主イエス・キリストにしっかりと結びついた者。1:1〜11、ここに繰り返される言葉があります。それは、あなた方、という言葉です。パウロと、あなた方、フィリピの教会に生きる人々との間にある親しさを知ります。あなた方、即ち、私どもが、いったい、どういう存在なのか、いったい、何者なのか、ということです。私どもは、聖なる者、神の者、神から務めを委ねられた者、主イエス・キリストにしっかりと結びついた者である。
4.
最後に、このフィリピの信徒への手紙は、パウロが、ローマ帝国によって、捕らわれていた時に、獄中から、書き送られた手紙です。新約聖書に納められている4つの手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙、この4つの手紙は、獄中書簡、と呼ばれております。牢獄に繋がれ、不自由な中で、明日のいのちもよくわからない中で、自分も、あなた方も、主イエス・キリストに結ばれた聖なる者、神の者である、と語り、励ましているのです。さまざまなことに捕らわれてしまう私どもです。しかし、私どもは、既に、神によって捕らわれている、主イエス・キリストが、しっかりと抱き抱えていてくださる神の者、民の民なのです。
しかし、私どもが聖なる者、神の者である、などと呼ばれるのは、余りにも恥ずかしい、という思いがないわけではありません。また、逆に、私ども自身が、驕り高ぶって、自分たちは聖なる者、神の者である、などと堂々と自称しているのであれば、こんなに独り善がりなことはありません。
しかし、いつの間にか、私ども自身が、自分たちが聖なる者である、神の者である、ということを、認めなくなってしまう。この世に生きている人々から、お前たちは、それでも、信仰をもって生きている人間か、それでも、聖なる者、神の者か、と言われてしまい、あるいは、そう言われることを恐れてしまい、自分自身でも、自分が聖なる者である、神の者である、と断言し損なってしまう。自分が、今、既に、聖なる者である、神の者である、ということが、信じられなくなってしまうのは、明らかに不信仰です。私どもが、聖なる者、神の者とされたのは、私どものよい行いのゆえではありません。私ども自身の中に、私どもが、聖なる者、神の者とされる理由は一つもありません。ですから、いったい、自分のどこに聖なる者、神の者らしさがあるのだろうか、と思ってしまうことは、謙遜であるようですが、実は、不信仰なのです。自分の中に、聖なる者、神の者らしさを発見しようとするからです。それは、結局、自分で自分を救おうとする企てに過ぎないからです。
しかし、そこでこそ、パウロは、語るのです。1:1〜2「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」、私どもは聖なる者、神の者なのです。主イエス・キリストによって、主イエス・キリストのおかげで、私どもは聖なる者、神の者にしていただいたのです。私どもは、自分自身の力や努力によって、聖なる者、神の者になったのではありません。主イエス・キリストのおかげなのです。
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