
イースター礼拝説教要旨 2006年 4月16日
詩編32:1〜5
フィリピの信徒への手紙1:3〜11「溢れるほど受ける義の実」
私どもが神を信じて信仰に生きている時に伴う最も大きなしるしは、いったい、何でしょうか。私どもが、救い主主イエス・キリストを信じて信仰に生きている時に伴う最も大きなしるしは、いったい、何でしょうか。言い換えると、あぁ、この人は、ほんとうに、神を信じて生かされている、救い主主イエス・キリストを信じて生かされているということが、はっきりとわかるのは、いったい、どこででしょうか。礼拝を献げている時です、祈りを献げている時です。礼拝に生き、祈りに生きている時、自分は、神を信じ、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられて生かされているということが、最も鮮やかにわかります。
私どもの救い主主イエス・キリストのこの地上での生活には、さまざまなことがありました。沢山の奇跡をしてくださり、病気で苦しむ人々の願いを聴いてくださり、癒してくださいました。嘆き、悩み、悲しむ人々の願いを聴いてくださり、慰め、励ましてくださいました。私どもは、主イエス・キリストを見倣いたい、と思います、模範として生きたい、と思います。しかし、なかなか、思うようにはなりません。しかし、主イエス・キリストのご生涯と、私どもの人生とが、重なるところがいくつかあります。その一つが、祈りを献げる、ということです。主イエス・キリストは、祈りの方でした。主イエス・キリストのご生涯を描いている福音書は、主イエス・キリストが、屡々、祈りを献げられたことを記録しています。主イエス・キリストは、十字架に磔られてからも、祈り続けられました。 祈りに生きるということは、愛に生きるということです。主イエス・キリストが、沢山の人々を愛して生きてくださったように、私どもも、祈りに生きているということは、愛に生き始めているのです。勿論、主イエス・キリストの愛には、遠く及びませんが、しかし、私どもも、祈りに生きる時、愛に生きているのです。自分自身を愛しているから、自分のために祈ります。家族を愛しているから、家族のために祈ります。教会を愛しているから、教会のために祈ります。日本と日本に住む人々を愛しているから、日本と日本に住む人々のために祈ります。世界と世界に住む人々を愛しているから、世界と世界に住む人々のために祈ります。このように、私どもの祈りは、大きく広がるのです。愛が祈りに結びつくのです。祈りを献げて生きているということは、愛に生きているということです。
今朝も、一緒に新約聖書フィリピの信徒への手紙1:3〜11に記されている言葉、特に、1:9〜11に記されている言葉に耳を傾けます。フィリピの信徒への手紙の著者パウロ、初代教会のたいへん優れた伝道者であったパウロは、1:8「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」、あなた方、フィリピの教会に生きる人々を、どれほど思っているか、どれほど愛しているか、と語り、1:9「わたしは、こう祈ります。」、と祈り始めています。既に、パウロは、1:3〜4「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」、あなた方、フィリピの教会に生きる人々を、思い起こすたびごとに、いつも祈ると語りました。パウロのフィリピの教会に生きる人々を愛する愛が、いつも祈りに結びついていたのです。時々、思い出したように祈っていたのではなく、いつも祈っていたのです。フィリピの教会は、パウロ自身の伝道によって誕生した教会、ヨーロッパ最初の教会です。それだけに、パウロのフィリピの教会とフィリピの教会に生きる人々を愛する愛は、大きく、広く、深かったのだと思います。
しかし、フィリピの信徒への手紙を読み進んでいくとよくわかりますが、パウロとフィリピの教会に生きる人々との間は、何の問題もなく、理想的な関係であっわけではありません。熱くなったり、冷えきったりしたことがあったのです。
そういういろいろなことがあった中で、パウロは、いつでも、フィリピの教会に生きる人々のことを思い起こしては、感謝して、祈っていたのです。そこで、当然のこととして、問われることは、私どもが、小田原十字町教会に生きるすべての人々を思い起こすたびごとに、神に感謝し、喜んで祈っているかどうかということです。
自分が愛している人のために、まず第一になすべきことは、祈ることです。当然、と言えば、当然のことです。勿論、毎日、自分が愛している人々ために、祈っていると思います。自分の子どもたちのために、親のために、家族のために、健康が支えられるように、と祈ります。抱えているさまざまな悩み、悲しみ、痛み、さびしさから解き放たれるようにと祈ります。教会員あるいは教会のために祈ります。
しかし、そこで問われることは、その祈りが、どういう祈りであるかということです。
1:9〜11「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」、パウロが、ここで祈っております祈りは、ふだん、私どもが祈っている祈りとは、多少、違うところがあるかも知れません。パウロは、いくつかのことを祈っております。その一つは、フィリピの教会に生きる人々の愛、神を愛する愛、主イエス・キリストを愛する愛が、ますます豊かになるようにとの祈りでした。この祈りについては、先週の礼拝において、詳しく語りましたので、今朝、改めて語る暇はありませんが、一言だけ申しますと、パウロが、ますます豊かにしてくださいと祈っております愛は、ただ、フィリピの教会に生きる人々どうしの愛がさらに豊かになるようにということや、フィリピの教会に生きる人々のパウロを愛する愛がさらに豊かになるようにということだけではありません。むしろ、1:11「神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」、愛がますます豊かになって、結局、どうなるかと言うと、神の栄光と誉れとをたたえることができるようになるのですから、神を愛する愛が、もっと豊かになるようにとの祈りなのです。神をほめたたえることができるように、神を愛する愛が、もっと豊かになるようにしてくださいとの祈りなのです。神を信じる信仰を、もっと豊かにしてください、主イエス・キリストを信じる信仰を、もっと増し加えてくださいとの祈りなのです。言い換えると、一生涯、変わることなく、神を信じ、主イエス・キリストを信じる信仰に生き続けることができるようにしてくださいとの祈りなのです。
パウロが、ここで祈っておりますもう一つの祈りは、知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けることができるようにとの祈りです。勿論、神を愛する愛、主イエス・キリストを愛する愛が、ますます豊かになるようにとの祈りと、知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けることができるように、との祈りは、ばらばらの祈りなのではなく、分ち難く結びついています。神を愛すれば愛するほど、神が何を考えておられるのか、主イエス・キリストを愛すれば愛するほど、主イエス・キリストが、何を願っておられるのか、弁え知ることができるようになります。ほんとうに重要なことを見分けることができるようになります。
さて、そこで、ほんとうに重要なこととは、いったい、何でしょうか。1:10「キリストの日に備えて」、「キリストの日」に備えることです。主キリストの日を、知る力と見抜く力とを身に着けて、見分けることです。『新共同訳聖書』が、「知る力」、と訳している言葉を、『口語訳聖書』は、「深い知識」と訳しており、『新共同訳聖書』が、「見抜く力」と訳している言葉を、『口語訳聖書』は、「するどい感覚」と訳しておりました。主キリストの日を、深い知識と鋭い感覚において見分けることです。それこそが、ほんとうに重要なことの一つなのです。主キリストの日、というのは、主イエス・キリストが、再び来てくださる日です。その日、いわゆる最後の審判が執り行われる。使徒信条の言葉で言えば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」、主イエス・キリストが、かしこ、今おられる天から来てくださり、その時生きている人々も、既に死んでしまった人々も、お審きになられる。使徒信条が、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」、と告白している言葉は、将来に関わる言葉です。他の言葉は、ほとんど過去と現在に関わる言葉です。そういうところで、この将来に関わる言葉、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」ということを受け入れるか否か、それが、私どもに問われていることであり、ほんとうは、すべての人間に問われていることなのです。これこそが、ほんとうに重要なことなのです。言い換えると、私どもは、いつの日にか、必ず神の前に立たされるということを、深い知識と鋭い感覚によって、見抜き、受け入れることが、最も重要なことの一つです。この事実をよく弁えてほしいと願って、パウロは、神を愛する愛がますます豊かになるように、主イエス・キリストを愛する愛がますます豊かになるようにと祈ったのです。同時に、パウロが、フィリピの教会に生きる人々を愛すれば愛するほど、この最も重要なことを、よく弁えてほしいと願ったに違いありません。ですから、パウロが、ここで、ますます豊かにしてくださいと祈っております愛は、隣人を愛する愛でもあるのです。私どもが、隣人を愛すれば愛するほど、最も重要なことを、よく弁えてほしいと願いますし、私どもに与えられた救いを宣べ伝えたいと願うからです。
そこで、次に、もう一つ最も重要なことは、この日に備えて、1:10「清い者、とがめられるところのない者とな」ることです。清い者、と訳されている言葉は、もともと、太陽の光の下にさらすという言葉であり、咎められることのないと訳されている言葉は、躓かない生活、躓きを与えない生活という言葉が用いられています。どうしても立ち止まって考えざるを得ない言葉です。私ども自身を、太陽の光の下にさらした時、一点の影、曇りのない人がいるでしょうか。いつでも、どこでも、隣人に、躓きを与えない生活をし続けることができるでしょうか。太陽の光以上に私どもの姿を明らかにする神の言葉に、私ども自身を、さらした時、私どもは、自分自身の影、曇りを認めざるを得ませんし、躓きを与えている私ども自身の言動を知ります。また、聖書の言葉そのものに、主イエス・キリストご自身に躓いてしまうのです。だから、パウロは、聖書の言葉に躓くことなく、主イエス・キリストご自身に躓くことなく、最も重要なことを、深い知識と鋭い感覚によって、見抜き、受け入れることができるように、神を愛する愛がますます豊かになるように、主イエス・キリストを愛する愛がますます豊かになるようにと祈ったのです。
それなら、いったい、どのようにすれば、私どもは、聖い者、咎められることのない者となることができるのでしょうか。
今朝、詩編32:1〜5も朗読いたしました。詩編32:1〜2「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」、この詩編の著者ダビデ、イスラエルのたいへん優れた王ダビデは、咎、罪が赦された人々は、いかにさいわいか、と語っています。咎、罪が赦された人々は、いかにさいわいか、ということを深い知識と鋭い感覚によって、見抜き、受け入れることも、また、最も重要なことの一つです。しかしそれにもかかわらず、咎、罪が赦される、ということが、最も重要なこと、最もさいわいなことであるということを、うっかり忘れてしまうことがある。他に最もさいわいなことがあるかのように思い込んでしまう。ここにも、私どもの罪があります
どのようにして、咎、罪が赦されるか。32:5「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。」、咎、罪を隠すことによってではなく、神に告白することによってなのです。自分には、神によって、赦していただかなければならない咎、罪があることを認め、告白するのです。これも、また、最も重要なことの一つです。私どもは、日曜日の礼拝のたびごとに、十戒をともに口にすることによって、自分自身の罪を告白し、説教の言葉を通して、自分自身の罪が明らかにされるのです。十戒が明らかにし、説教が明らかにしている自分自身の罪を、深い知識と鋭い感覚によって、見抜き、受け止めるのです。
私ども自身の罪が明らかにされ、認めたところで、それで、すぐに、罪が赦されてしまうわけではありませんし、もとより、私どもは、自分自身で、自分を聖めることなどできませんし、咎められるところのない者となることなどできません。それなら、私どもは、ビクビクして、主イエス・キリストの日を待たざるを得ないのでしょうか。そんなことはない。
1:11「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け」ることによって、聖められ、咎められることのない者となることができるのです。自分自身の義ではないのです。私ども自身が義を獲得するのではないのです。主イエス・キリストが与えてくださる義の実なのです。私どもは、主イエス・キリストが、ご自分の十字架の死と復活によって生み出してくださった義の実を溢れるほど戴いて、神の前に出るのです。
確かに、パウロは、フィリピのキリストに生きる人々の愛がますます豊かになるようにと祈りました。それは、パウロが、フィリピの教会に生きる人々の神を愛する愛が弱い、主イエス・キリストを愛する愛が小さいということを、感じ取っていたのかも知れません。
一方で、私どもは、屡々、自分の信仰は小さい、弱い、十分でないと嘆きます。しかし、案外、そういうところで、神を愛する愛を、もっと豊かにしてください、主イエス・キリストを愛する愛を、増し加えてくださいとの祈りが、少ない、いや、欠けているところがあるのかも知れません。また、本当に重要なことを見分ける深い知識と鋭い感覚を与えてください、との祈りが少ない、いや、欠けているところがあるのかも知れません。私どもの祈りの生活を、顧みざるを得ないパウロの言葉でした。
しかし、他方で、パウロは、既に、はっきりと、こう祈りました。1:3〜5「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」、パウロは、フィリピの教会に生きる人々が、福音にあずかっている、主イエス・キリストを信じる信仰に生かされているということを喜び、感謝し、祈ったのでした。しかも、1:6「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」、フィリピの教会に生きる人々の神を愛し、主イエス・キリストを愛する愛が小さいかも知れないからといって、救われない、などとは、少しも思っていません。フィリピの教会に生きる人々の神を愛する愛が、大きいか、小さいか、主イエス・キリストを愛する愛が、強いか、弱いか、そのようなこととは、関係なく、神が、救いのみわざを初めてくださったのですから、救いのみわざを完成してくださるのも、神ご自身です。私どもの神を信じる信仰が、大きいか、小さいか、主イエス・キリストを信じる信仰が、強いか、弱いか、そのようなことに左右されるわけではないのです。神が、一度、私どもを救ってくださることを、決断なさったのですから、その決断が、私どもの側の信仰の強さ弱さ、愛の大きさ小ささによって、変わるものではないのです。救いの確かさは、私どもの側にあるのではなく、神の側にあるのです。
パウロは、1:6「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」、ここでも、「キリスト・イエスの日」、と語っております。主イエス・キリストが、再び来てくださり、最後の審判を執り行ってくださる時、救いのみわざを、神が完成してくださるのです。私ども自身が、自分自身を聖め、咎められるところのない者にするのではなく、神が救いを完成してくださるのです。だから、私どもは、安心して生き、その日を迎えることができるのです。この確かな平安を与えてくださるために、主イエス・キリストは、私どもの罪の審きを身代わりに背負ってくださり、十字架に磔られてくださり、ご復活なさったのです。
説教の本棚のページへ
![]()