説教954 ペンテコステ礼拝 2006年 6月 4日
イザヤ書43:21〜26
フィリピの信徒への手紙1:27〜30「たじろぐことがない救い」
1. 1:27「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」 この手紙の著者パウロ、初代の教会のたいへん優れた伝道者パウロが、ただ、ひたすらに、主イエス・キリストの福音に相応しい生活を送ってほしいと勧めています。主イエス・キリストの福音、即ち、主イエス・キリストによって救われた者として、相応しい生活です。言い換えると、信仰者として、キリスト者として相応しい生活です。教会に生きる者として相応しい生活です。あなたは、教会に生きる者として相応しい生活を送っていますかとパウロは、私どもに問うているのです。私どもは、この言葉の前で、どうしても、立ち止まってしまいます。聴き逃すことができない言葉です。いったい、自分自身は、福音に相応しく生きているのだろうか、と自問自答せざるを得ない言葉です。
福音に相応しく生活を送るということを聴くと、一つのかたちにはまるような生活をすることであると、うっかり勘違いをしてしまうことがあるかも知れません。勿論、福音に相応しく生活を送るということは、一つのかたちにはまるような生活をすることではありません。それなら、いったい、相応しいということは、どういうことなのでしょうか。
2. 1:27「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」 ひたすら、と訳されている言葉は、ただ一つのこと、という意味をもった言葉が用いられています。ただ一つのことを願う、それは、主イエス・キリストの福音に相応しい生活を送ることであるとパウロは勧めているのです。ただ一つ、ひたすら、という言葉には、とても重い意味があるのです。しかし、パウロは、沢山のことを求めているのではない。一つなのです。一つでよいのです。それが、主イエス・キリストによって救われた者として、相応しい生活なのです。
1:27「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」 生活を送りなさいと訳されている言葉は、市民として生活するという言葉が用いられています。私どもが神を信じ、主イエス・キリストを信じて生きるということは、私どもの密かな生活、心の奥底の生活というのではなくて、信仰の生活は、同時に市民として生活するということなのです。主イエス・キリストを信じ、教会に生きるということは、この世の事柄に無関心、無関係、無視して生きることなのではなくて、信仰の生活と市民として、国民としての生活を送るということなのです。教会の生活さえ重んじておればよいというのではなくて、市民、国民としてなすべきことをきちんと行うということなのです。たとえば、国の法律を守る、ということです。
このフィリピの信徒への手紙は、おそらく、パウロがローマの獄中にいた時に、書き送られたと推測されています。パウロは、ローマ帝国の囚人として、ローマの権力、力を、嫌というほどに感じていたのです。それだけに、生活を送りなさい、市民、国民として生活を送ると勧めた意味は重いのです。パウロにとっては、今、自分を牢獄に繋ぎ止めているローマ帝国の法律を守るということであったのてす。神を信じ、主イエス・キリストを信じる生活は、心の問題なのだから、この世の事柄は、軽んじたらよいのだと語ったのではなくて、市民として、国民としての生活をきちんと行うことを勧めたのです。パウロが、若い伝道者テモテに書き送ったテモテへの手紙一3:7「監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。」と記されています。監督、即ち、牧師、長老は、教会の外にいる人々からも、良い評判を得ている人であることが求められるとパウロは語っています。勿論、牧師、長老に限らず、教会に生きる私どもすべてが、良い評判を受けることが、求められることは、言うまでもないことです。それが、福音に相応しく生活することなのです。しかし、こういうことを求められると、正直なところ、少し困ってしまうかも知れません。信仰生活を送ることは、何と窮屈なことなのかと思ってしまうかも知れません。いったい、誰がこの言葉に耐えることができるだろうかと思います。しかし、難しいことなのではありません。
市民として生活するという言葉は、ある英語の聖書では、会話するという言葉が用いられています。会話ができればよいのです。挨拶ができればよいのです。私どもが、神を信じ、主イエス・キリストを信じて生きるということは、ともに生きるべき隣人を軽んじるのではなく、言葉を交わして生きる、挨拶して生きるということなのです。
3. しかも、生活を送りなさいと訳されている言葉は、このフィリピの信徒への手紙に記されている言葉の中でも、最も有名な言葉のうちの一つ、3:20「わたしたちの本国は天にあります。」 「わたしたちの国籍は天にある」、国籍、本国、という言葉と、もともと、語源が一緒だったのです。ですから、ただ、市民としての生活、国民としての生活というのではなくて、本国の生活を送りなさいということなのです。私どもの本国は天にある、私どもの国籍は天にある。国籍が天にある者として、この地上において生きる。私どもの本国は神の国にある、私どもの国籍は天の国にある。私どもの信仰の生活は、天の国の生活を映し出しているような生活、神の国に生きていることがはっきりと分かるような生活なのです。神の国に生きていることがよく分かる生活というのは、地上の生活など、どっちみち関係無いのだからと言って、軽んじる生活なのではなくて、地上に生きていながら、天の国の生活を営むのです。天の国の生活、神の国の生活、言い換えると、神の前で生かされている生活を、この地上において送るのです。ほんとうに、神の国の国民として生きていると言うような生活です。これも、また、難しく考える必要はありません。まさに、この礼拝こそが、神の前での生活の要です。礼拝において、私どもは、神にお目にかかることができる。私どもは、神の前に出て、礼拝を献げています。この喜びに押し出されて、日々の生活を送るのです。神とともに生きることができる喜びが、私どもを、ともに生きるべき隣人に仕えさせるのです。それも、また、福音に相応しい生活なのです。私どもが、福音に相応しい生活を送るのは、嫌々、渋々、義務感からなのではなくて、既に、神の前に出て、神の国に生かされている喜びからなのです。
私どもは、既に、天に本国のある者として、国籍が神の国にある者として生かされているからこそ、こんな私が救われたのですから、あなたも救われますと伝道へ押し出されていくのです。ですから、もし、万が一、伝道しないなどと言うようなことがあるのであれば、それは、天の国の国民、神の国の国民になっていることを、喜んでいない証拠であると言われてもしかたがないかも知れません。伝道は、義務感からなのではなく、救いの喜びから生まれるのです。伝道しなければならないというのではなくて福音に相応しい生活を送らねばならないのでもなくて、神とともに生きることができるようになった喜びが、私どもを伝道へ、福音に相応しい生活へ送り出すのです。
4. さらに、1:27「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」 福音に相応しいと訳されている言葉は、福音という値段に相応しい、という言葉が用いられています。福音という値段、勿論、福音、神とともに生きる救いに値段をつけることなどできませんし、福音、神とともに生きる救いをお金で買い求めることなどできません。福音という値段について、パウロは、こう語りました。コリントの信徒への手紙一6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 私どもは、代価を払って買い取られた存在。私ども自身が、代価を払ったのではなくて、主イエス・キリストが、十字架の死によって、私どもを買い取ってくださり、ご自分の者としてくださった。誰から買い取ってくださったのか。罪と罪の審きとその結果である死です。主イエス・キリストが、ご自分の十字架の死によって、罪の審きを受けて滅びざるを得なかった私どもを、買い取ってくださったのです。買い取ってくださったということは、ご自分のものとしてくださったということです。私どもは、主イエス・キリストの者なのです。パウロが語った言葉で言えば、フィリピの信徒への手紙1:1「キリスト・イエスの僕」です。罪の奴隷、罪の僕から、主イエス・キリストの僕に変わったのです。だから、そこで求められることが、主イエス・キリストの僕、主イエス・キリストに仕える者として相応しい生活です。主イエス・キリストが、ご自分の十字架の死によって、私どもを買い取ってくださったという福音を、心から真実に受け入れた時、私どもは、既に、相応しい生活に送り出されているのです。難しく考える必要はありません。わざわざ福音に相応しい生活を送りなさいなどと言われなくても、すぐにできる生活なのです。
5. しかし、また同時に、1:27「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」 相応しい、と訳されている言葉は、辱めないようにと訳すことができる言葉です。私どもを、十字架の死によって買い取ってくださった主イエス・キリストを辱めない生活です。確かに、この言葉の前で、私どもは、どうしても、立ち止まって考えざるを得ません。私どもが、主イエス・キリストを辱めていないような相応しさを既に身につけているのかどうかということを、吟味せざるを得ません。私どもの姿を明らかにする言葉です。折角、主イエス・キリストが、ご自分の尊い十字架の血潮によって、私どもを、ご自分のものとして買い取ってくださったのにもかかわらず、主イエス・キリストを、再び、辱めるようなことをしてしまっている私どもであることを、認めざるを得ません。
特に、今朝は、主イエス・キリストが、定めてくださった聖餐に与ります。私どもが、聖餐に与る度毎に聴く聖書の言葉、コリントの信徒への手紙一11:27〜29「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」 明らかに、相応しさが問われています。誰でも、よく自分を確かめた上で、弁えた上で、聖餐に与るように、パウロは、言葉を重ねて勧めています。
しかし、それにもかかわらず、私どもが、聖餐に与る時、パンに手を伸ばし、杯に手を伸ばし、パンを戴き、杯を戴きます。それは、相応しいと確信しているからです。もし、相応しくなかったら、手を伸ばすことはできません。しかし、私どもは、相応しいのです、聖餐に与るのに相応しいのです、福音に相応しく生かされているのです。いったいこの相応しさは、どこから与えられたものなのでしょうか。
福音に相応しい人間はもともといません、聖餐に与るのに相応しい人間も、もともといません。私どもは、神が救ってくださるのに相応しい人間であったわけではありません。私どもは、主イエス・キリストが、十字架の血潮によって、ご自分の者としてくださるのに相応しい人間であったわけではありません。福音に相応しい人間は、いないのです。神が救ってくださるのに相応しい人間は、いないのです。誰もが、福音に相応しくない、誰もが、神の救いに与るのに、相応しくないのです。しかし、誰でも福音に招かれている、誰もが神に救いへと招かれているのです。だから、私どもも、主イエス・キリストの救いに与ったのです。
主イエス・キリストが求めておられる相応しさというのは、私どもは、神が救ってくださるのに相応しくない、主イエス・キリストが十字架の血潮によってご自分の者としてくださるのに相応しくない、聖餐に与るのにも相応しくないということを、弁えることなのです。相応しくないということを認めることが、相応しさなのです。相応しくないということを認めることが、信仰なのです。私どもが、ほんとうは、聖餐に与るのにも相応しくないということを弁えつつ、パンに手を伸ばし、杯に手を伸ばしているということは、既に、私どもは、神に相応しくされているのです、主イエス・キリストに相応しくされているのです。福音に相応しく生き始めているのです。それは、主イエス・キリストのおかげなのです。
6. ところで、パウロは、福音に相応しく生きるということを、こう言い換えています。フィリピの信徒への手紙1:27c「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」、福音に相応しく生きるということは、福音の信仰のためにともに戦うことであるとパウロは、言うのです。戦いなどと言われると、困ってしまうかも知れません。戦う力などないし、だいたい、神を信じ、主イエス・キリストを信じて生きることと、戦うこととがどう繋がるのだろうかと思うかも知れません。人生の戦いに疲れたので、教会へ来た、礼拝に出席したのにもかかわらず、そこで、また、信仰は戦いだなどと言われると、余計に疲れるということになってしまうのかも知れません。信仰に生きるということを、戦いという言葉で言い表すことに、抵抗を覚えることもあるかも知れません。神を信じて生きることと、戦いは、どうも馴染まないという考えもあるかも知れません。信仰は、戦いではなく、平和、平安だ、心と体の静けさだという考えもあるかも知れません。確かに、神を信じ、主イエス・キリストを信じて生き始めた時、それまで右往左往し、騒ぎ立っていた心と体に、平安が与えられます。それは事実です。私どもが、身をもって経験し、よく知っていることです。しかし、心と体の静けさを求め、この世の煩いから逃れて、たとえば、一人で山の中にでも入ってみても、少しも、心と体に静けさが与えられるわけではありません。おかしなことかも知れませんが、福音の信仰のための戦いを戦い続けている時にこそ、平安が与えられるのです。
しかし、また、同時に、信仰生活が、戦いの生活であることも、よく知っています。パウロが、1:28「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」、と語っておりますように、主イエス・キリストの福音に反対する輩が、主キリストの教会に生きる人々を、脅していたのです、迫害していたのです。2000年にわたる主キリストの教会の歴史において、主キリストの教会は、屡々、迫害を受けました。主キリストの教会の外からの迫害との戦いを強いられてきました。しかし、同時に、主キリストの教会の中での戦いも、経験してまいりました。異端、異なった教えとの戦いです。
しかし、ここで、大切なことは、いったい、誰との戦いなのか、何との戦いなのかということです。戦う相手は、いつでも、どこでも、私どもの外にあるのではありません。むしろ、私どもの内側にある。まず何よりも、自分との戦いです。このようにして、私どもが、日曜日の朝、礼拝を献げることも、一つの戦いです。心身ともに疲れ果てている、家でゆっくりと心と体とを休めたいという思いと戦って、今朝、礼拝にかけつけたのです。私どもを、礼拝から引き離そうとする力、日々の祈りから引き離そうとする力との戦いです。さまざまな誘惑との戦い、怠惰、怠慢との戦いもあります。ただ単に、自分を守るための戦いなのではなくて、神を信じるための戦い、神に祈りを献げるための戦いなのです。不思議なことですが、この福音の信仰のための戦いを戦い続けている時にこそ、平安が与えられるのです。それは、いったい、なぜか。
この戦いを、私どもは、一人で戦っているのではないからです。1:27「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、」 ともに戦っているのです。心を合わせて、教会に生きる人々とともに戦っているのです。パウロが、コリントの信徒への手紙一12:26「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と語っておりますように、教会に繋がった私どもの一人の苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさは、教会全体の苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、さびしさなのです。だから、ともに祈るのです。祈りによって戦いに参加しているのです。
さらに、ともに教会に生きる人々と心を合わせて戦っているだけではありません。フィリピの信徒への手紙1:27「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、」 一つの霊、即ち、神の霊、主イエス・キリストの霊によってしっかりと立つことがゆるされている。私どもの戦いは、私どもだけが、頑張って戦う戦いなのではなくて、神の霊、主イエス・キリストの霊、聖霊が、一緒に戦っていてくださるのです。戦っている時にこそ、神がより近くにいてくださるのです。だから、神とともに生きる平安が与えられるのです。
先程、主イエス・キリストが求めておられる福音に相応しく生きる相応しさというのは、私どもは、神が救ってくださるのに相応しくない、主イエス・キリストが十字架の血潮によってご自分の者としてくださるのに相応しくない、聖餐に与るのにも相応しくないということを、弁えることであると語り、相応しくない、ということを認めることが、相応しさであり、相応しくないということを認めることが信仰であると語りました。この信仰が、聖霊のおはたらきのおかげで、私どもに与えられたのです。信仰に生かされているということは、聖霊によってしっかりと立っているのです。私どもは、確かな救いに、ゆるぎない救いに堅く立っているのです。
だから、1:28a「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」のです。私どもは、たじろぐことがない、狼狽することはないのです。もう、既に、福音に相応しい生活を送っているからです。1:28b「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。」 このことというのは、信仰のための戦いです。信仰のための戦いを戦っている私どもに約束されているのが、救いです。いや、救われているからこそ、戦うことができるのです。戦っている時にこそ、神はより近くにいてくださる、主イエス・キリストがより近くにいてくださるのです。しかも、1:28c「これは神によることです。」とパウロが語っておりますように、神の霊、主イエス・キリストの霊、聖霊が一緒に戦っていてくださるからです。だから、私どもは、たじろぐことがない、狼狽することはないのです。この確かな救いの恵みを、私どもは、説教の言葉と聖餐とによって、与えられているのです。
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